河野裕子(かわのゆうこ、1946-2010年)の短歌「ぽぽぽぽと秋の雲浮き子供らはどこか遠くへ遊びに行けり」の解説。子の成長を見守る親の喜びと一抹の寂しさを「秋の雲」に託して効果的に詠んでいる。
「ぽぽぽぽ」という印象的が擬態語(ぎたいご)が使われ、記憶に残りやすい歌である。歌集『紅』(ながらみ書房、1991年)に収録され、歌人の没後、歌集『あたな』(岩波書店、2016年)に再録された一首で、秋の空を背景に、家族の日常と子に対する親の心情を鮮やか切り取っている。
しかし、この歌から、楽しげな雰囲気や幸福な家族像をだけを受け取ったとしてら解釈としては不十分である。私の考えでは、子の成長を感じた親の喜びと寂しさを表現しているからだ。それについては「鑑賞」で詳しく説明する。
まずは読みと意味を見ていこう。
読みと歌の意味
ぽぽぽぽと秋の雲浮き子供らはどこか遠くへ遊びに行けり
河野裕子『紅』
読みは、以下の通り。
ぽぽぽぽと/あきのくもうき/こどもらは/どこかとおくへ/あそびにいけり
「秋の雲がぽぽぽぽという様子で浮かんでいて、子供たちはどこか遠くへ遊びに行ってしまった」という意味である。
表現技法・句切れ
よみの仮名表記を見れば分かる通り、5句31音の定型で読まれている。つまり字余り、字足らずはない。最後が「行けり」と助動詞「り」の終止形で終わっているので句切れはない。
表現技法としては、冒頭に書いた通り「ぽぽぽぽ」という擬態語を使っている点が挙げられる。「語句・文法」で詳しく書くが、秋の雲として、鱗(うろこ)雲、鰯(いわし)雲、鯖(さば)雲などが知られている。記事上に掲載した写真は鱗雲である。
雲を形容するには独特な表現の「ぽぽぽぽ」だが、一度、そのようなイメージを持って空の雲を見ると、このオノマトペが確かにふさわしいと感じられる。これが擬態語や擬声語の不思議なところだ。
もう一つ、雲は子供たちの比喩になっているというのが私の考えだ。明示されていないので、雲は子供たちの「暗喩」である。これについては「鑑賞」で解説する。
擬態語と擬声語、オノマトペ
短歌や俳句でしばしば使われる表現技法である擬態語と擬声語(ぎせいご)について説明する。
擬態語は、物事の状態を描写する語。感覚的な印象を音に置き換えたもので、例えば「そわそわ」「ぐずぐず」のような表現である。擬声語は、物の音や声などを表わす言葉で、「ざあざあ」「にゃあにゃあ」のような、実際の音や声を置き換えたもの。擬音語ともいう。擬態語と擬声語を混同しやすいので注意したい。
オノマトペ(onomatopée)はフランス語で、擬声語と擬態語の両方を意味する。
語句・文法
次に語句と文法を解説する。この歌の季節は秋だ。秋晴れという言葉があるように、この季節には移動性高気圧が日本列島をおおい、空気が澄んで抜けるような青空が広がる。そこに様々な形の白い雲が浮かぶわけだ。その雲がこの歌では、重要な役割を担って登場する。
雲の形状(うろこ、いわし、さば、ひつじ)
すでに書いたように、秋の雲には、鱗(うろこ)雲、鰯(いわし)雲、鯖(さば)雲がある。いずれも巻積雲(けんせきうん)で、上空5000メートル以上の上層に発生する。これらは、いずれも秋の季語である。一方、羊雲(ひつじぐも)は、上空2000~7000メートルの中層に発生する高積雲(こうせきうん)の通称。
魚のサバの背には、波のような模様がある。これに似た形状の雲が鯖雲。それぞれが独立していて、魚の群れのように見える雲が、鰯雲。これよりもサイズが大きいのが鱗雲だ。さらにサイズが大きく、羊の群れを思わせるのが羊雲である。鯖雲は、連続した筋のような形状なので比較的区別しやすいが、その他の雲は実際のところ、明確に見分けがつかなことも多い。あくまで、見た人が連想するイメージだと思えばいい。
ここで知りたいのは、歌に詠まれた雲の形状である。断定はできないが、私のイメージでは、うろこ雲が「ぽぽぽぽ」という語感に一番近いと思う。
完了の助動詞「り」
文法的には、第五句にある「行けり」の解釈がポイントになる。「行けり」は、動詞「行く」の命令形+助動詞「り」の終止形。
助動詞「り」には、存続(~している)と完了(~た、~しまった)の意味がある。存続の意味に解すると「行っている」となる。しかし、人が目的地に進んでいる場合、「向かっている」「移動している」と言うことはあるが、普通「行っている」とは言わない。従って、完了の意味で「行ってしまった」と解するのが自然である。この歌の場合、子供たちがすでに目的地に向けて出発した後の語り手「われ」の心情を詠んでいると解釈できる。
鑑賞
冒頭で、この歌は「子の成長を感じた親の喜びと寂しさを表現している」と書いた。上記の解説を前提に、この解釈について説明したい。
まず、季節は秋である。よく晴れた休日、子供らはきっと友だちと遊ぶため元気に外出した。それを「行ってらっしゃい、気をつけて」と送り出した「われ」。夫は家にいるのか、あるいはいないのか分からない。子供たちが消えて静かになった家で、秋のひんやりとした空気に包まれて「われ」が一人たたずんでいる場面を想像したい。
子の成長を見る喜びと寂しさ
親が子供たちは「行ってしまった」と言葉にするとき、どんな心情がよぎるだろうか。
われ」は、幼かった子供たちが子供だけで外出できるようになたったことの成長を喜んでいる。同時に、子供たちが少しずつ自分たちの世界を広げ、親から独立していくことへの寂しさに包まれるのではないか。
「どこか遠くへ」という表現が重要な意味を持っている。子供たちが遠出するのなら、「われ」は親として行き先を確認しているはずだ。それなのにあえて知らないふりをして詠んでいる。ここには、近い将来、子供たちは成長して、親元を離れて独立してしまうことへの思いが込められている。
子供らが成長すれば、彼らの行動を細かく把握できない。子供はいつか就職し、家を出ていくだろう。それはいいことだと分かっているが、親としては寂しさをぬぐえない。そうした子の成長を見守る親の微妙な心情を表すのが「どこか遠くへ」である。
このように考えれば、鱗雲のイメージを表現した、冒頭の「ぽぽぽぽ」というオノマトペが置かれた意味も見えてくる。歌の出だしは、明るく楽しそうな雰囲気をかもしだしている。この印象は、「行けり(いってしまった)」に来て、部屋に残された「われ」の寂しげな表情へと転換する。
流れていく雲と子供たち
秋の雲という素材もよく考えて選ばれている。青空に点々と散らばる雲の様子は、公園のような広々した場所で子供らが元気に走り回る姿に重なる。つまり、雲は子供たちの「暗喩」になっているわけだ。そんな雲も、時間が経てば風に吹かれて遠くへ流されてしまう。空をゆっくり漂う雲のイメージは、成長して親元を離れていく子供たちを想起させる。「われ」は秋の雲をひとり見上げて、子供たちの行く末に思いを巡らせている。
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