宇佐見りん『くるまの娘』の解説。暴力を振るう父とアルコール依存の母の元に育った娘・かんこの苦悩を描く。家を出ていった兄に対して、かんこは家に留まり、暴力から身を守りつつ、「自立」とは異なる関係を両親と結ぼうとする。そのとき彼女が選んだ居場所とは。
「アダルトチルドレン」が苦しみつつ、生きづらさを抜け出す契機をつかむまでの物語である。暴力を振るう父とアルコール依存の母がいる。高校生の娘、かんこは、このような両親との関係に悩んでいる。
かんこの兄は、家族と距離を置く道を選んだ。すでに結婚し、所帯を持つ兄は、かんこにも、家を出て両親から自立することを勧める。しかし、両親もまた苦しんでおり、かんこは、彼らを捨てて家を出ることが、正しいと思えず、両親とともに暮らすことを選ぶ。
暴力やアルコール依存が日常化している家族は、機能不全家族と呼ばれる。そうした家族の中で育った子、あるいは成長した大人がアダルトチルドレンだ。アダルトチルドレンは、問題を抱えた親に虐待され、それを当たり前のこととして育つ。そのため、自己肯定感が乏しく、承認欲求が極端に強いなど、何らかの生きづらさを抱えている。
アダルトチルドレンがある程度成長すると自分の家族の異常さに気づき、生きづらさの理由が親にあったことを認識する。そして苦しさから解放されるために、親の影響力から脱して自立することを考える。アダルトチルドレンが身を守り、生きづらさを克服するため、親と距離を置き、絶縁することが推奨されたりもする。
しかし、かんこは、こうした説を受け入れない。アダルトチルドレンは自立しなければいけないのか、親から離れることが正しいのか、と。ここに小説が届けようとしている問いがある。
まずはあらすじを整理する。
あらすじと主要人物
(※後半の内容に触れています)
主人公のかんこは高校生。学校を休みがちでカウンセリングを受けている。かんこの不登校の要因は両親にあった。
父は、怒りの感情に火がつくと、人が変わったように残酷になり暴力を振るう。かんこが学校を休むと、父は彼女の髪をつかんで、「自分の娘だと思えねえよ、恥ずかしくて」と叫ぶ。こうした虐待が毎日繰り返された。母は脳梗塞の後遺症があり、台所で隠れて酒を飲んでいる。飲むと、ちょっとしたことで理性を失い、泣き叫んだり、包丁を持って暴れたりする。アルコール依存である。そんな母を励ますことが自分の役目だとかんこは考えていた。
父は3人の子に自宅で勉強を教えて、難関私立中学に合格させた。教え方は、スパルタだ。集中していないと蹴ったり、叩いたりする。勉強をさぼれば怒鳴られ、髪をつかまれた。こうしたやり方を兄と弟は嫌がっていたが、かんこはそこそこ上手くやっていた。しかし、ある時から体が拒絶しはじめた。
兄は、両親に嫌気がさして、家を出ていった。弟は、来年から祖父母の家から高校に通うことが決まっていた。そうなればかんこは両親と3人だけで生活することになる。
そんなある日、父の母の葬儀の場に家族全員が集まることになった。両親とかんこは、途中で宿を取らず車中泊をした。以前家族旅行の際にも、倹約のためしばしば車中泊をした思い出がある。座席を倒して寝袋や毛布にくるまって眠る。今回は湖畔の駐車場に車を止めて一泊した。
その夜も母は、駐車場の近くにある売店で酒を買ってこっそり飲んでいた。そして父と言い争いになり、泣き出した。冷静さを取り戻した母はかんこに「ママを、きらいに、ならないでね」と言う。そんな出来事があり、かんこは「帰りたい。あの頃に帰りたい」と思う。
葬儀が終わり、祖父の墓参りをしているとき、兄は、「家出てもいいと思うけど。あの人たちだって大人だし」とかんこに語る。かんこは、これに「就職したらね。今、離れて傷つけたくない」と応える。
車で自宅に向かう途中、母は、昔家族で行った遊園地に寄りたいと言い出した。道中の車内では、父が怒鳴り、母が泣き、かんこと弟も泣くという悶着が起きるが、なんとか遊園地に到着。そこに兄夫婦も合流した。しかし、一番目当てにしていたメリーゴーランドは休止していた。母はそれを知って泣き崩れた。幼い子どもたちと父が一緒にこのメリーゴーランドに乗る様子を写真に撮ったことがある。今回も同じ写真をぜひとも撮影したかったのだ。
かんこは、制止する係員を無視して、柵を乗り越えメリーゴーランドの馬に飛び乗る。父、兄を呼ぶが乗ろうとしない。弟はトイレに行っていた。それでも母は馬の上でピースするかんこを撮影した。
旅から帰るとかんこは、車から降りられなくなっていた……。
機能不全家族と共依存
アダルトチルドレンは、元来、アルコール依存の親に育てられ、成人した人のことを差す言葉だった。日本では1990年代から、一般に広がった。アルコール依存のほかに、薬物依存や暴力、ネグレクトなどの問題を抱えた家族は、機能不全家族と呼ばれる。今では意味が拡大し、機能不全家族に育った人もアダルトチルドレンに含まれるようになった。
アダルトチルドレンは、自尊感情が乏しく、他者に認められることでしか満足を得られず、他者の好意を得るため献身的に振る舞う傾向があるとされる。
機能不全家族で夫がアルコール依存の場合、その傍らには、暴力や暴言を受けながらも何かと夫の世話を焼き、尻拭いしてくれる妻がいる。夫は酔って妻からケアを引き出そうとし、妻は酔って子どものようになった夫にケアする役割からある種の満足を得る。こうした関係が続くうちに、妻は、「自分がいなければ夫は生きられない」と確信するようになる。
夫は酔ってもケアしてくれる妻がいるので酒を止めようとしない。妻は夫が酒を飲まなければケアによる満足を得られないので、せっせと酒を買ってくる。このように夫と妻が互いに依存しあっている状態を「共依存」と呼ぶ。
アダルトチルドレンとしてのかんこ
実は、この小説の中に「アダルトチルドレン」という言葉は出て来ない。しかし、かんこと兄、弟の人物像がアダルトチルドレンを意識して設定されているのは明らかだ。
まず、家族内にアルコール依存と暴力が日常的にあるという要件が揃っている。典型的な機能不全家族の場合、夫(父)がアルコール依存で、妻と子どもに暴力を振るう。かんこの家族では、暴力は父に、アルコール依存は母に役割が振り分けられている。これは父だけを悪者にしないという小説上の工夫だと考えられる。
かんこの言動にもアダルトチルドレンの特徴は表れている。臨床心理士の信田さよ子は、アダルトチルドレンに見られる自己非難の傾向について次のように説明する。
親の不幸、親から受けた傷を「私のせいである」「私が悪い子だから」と思うことで過剰に背負ってきた彼らは、自分が存在しなければすべてはもう少しましであったかもしれないという感覚を、人生の早期に、心のどこかに刻みこんで成長してきました。
信田さよ子『「アダルト・チルドレン」完全理解』(三五館)
同じように、かんこも登校を拒否する自分を責める場面がある。
わたしが悪かった、あなた(筆者注:父のこと)はあんなに期待をかけて育ててくれたのに、たいへんな思いをして学校にいれてくれたのに、できそこないの人間に育ってしまった、学校に通えなくなったとき、そのことを、あなたや母さんのせいにした。背につかまって泣きたくなった。
宇佐見りん「くるまの娘」(『文藝』2022年春季号)
かんこは、父のスパルタに耐えて勉強し、難関校に合格した。親の期待に応えるため必死に「いい子」であろうとした。しかし、突然体が言うことを利かなくなる。原因は父の暴力や母のアルコール依存にあるのに、自分が悪いと思いこんでしまう。アダルトチルドレンに典型的な思考パターンである。
かんこをアダルトチルドレンと認定する理由はほかにもある。嗜癖障害が専門のクラウディア・ブラックが提示したアダルトチルドレンの3つの類型に関連して、信田は「ケアテーカー・タイプ」に言及している。
三つ目のタイプとして、ケアテーカー・タイプがあります。これは女の子に多くみられます。だめなお父さんの面倒を見たり、弟や妹の面倒を見たり、お母さんの家事の手伝いをしたり、いつも周りのために周りのためにとぱかり考えています。
信田さよ子『「アダルト・チルドレン」完全理解』(三五館)
かんこの場合、アルコール依存の母の面倒を見ることで「ケアテーカー」の役割を担う。
昔、母は気丈だった、とそのときかんこは思った。病気以降、一変し、泣き出すことが増えた母を励ますのが自分の役目だとかんこは思っていた。母の姿は小さな子どもがスーパーの床にへたりこんでいるようで、割れるような声で泣き叫ばれているのにかんこはむしろ冷静な気分だった。
宇佐見りん「くるまの娘」(『文藝』2022年春季号)
子どものように泣いている母を娘であるかんこが母のような気分で見つめている。ここで母とかんこの関係は、典型例のアルコール依存の夫と彼をケアする妻の関係に重なる。この母と娘の間には共依存の関係にあると見ることも可能だ。
暴力の世代連鎖
アダルトチルドレンに関しては、親の暴力やアルコール依存が子にも受け継がれる世代連鎖が指摘されている。この小説では、父もまた祖父からしばしば殴られていたことが語られる。祖母に逃げられた祖父は、怒りの感情にまかせて幼い父を殴り、椅子を蹴り上げたという。
祖父から父へと連鎖した暴力は、かんこにも受け継がれている。祖母の葬儀から帰る車の中で、父は弟を言葉の暴力で傷つけて泣かす。後部座席からその様子を見ていたかんこは、運転する父の背もたれを怒りにまかせて蹴り上げる。そして、自分の暴力衝動は父と同じものだと気づく。
背もたれを蹴ることもまた暴力であるということだった。そして、それが発露する瞬間、かんこはその行為を正当なことのように感じた。父も同じだったのではないかと思う。父もまた、背もたれを蹴るような、つまり「被害に対する正当な抵抗」の感覚で、家族に対して力を行使していたのではないか。
宇佐見りん「くるまの娘」(『文藝』2022年春季号)
「依存」でも「自立」でもなく
ここまで見てきたように、かんこは「アダルトチルドレン」としての多くの条件を備えている。かんこがそのようなキャラクターとして設定されたのは、「アダルトチルドレン」について語られる「依存と自立」の言説に抵抗させるためだと考えられる。あらすじに書いた「今、離れて傷つけたくない」というかんこの答えに対して、兄は「自立していないんだよ」と批判する。その後、自立に対するかんこの心の内は次のように語られる。
もつれ合いながら脱しようともがくさまを「依存」の一語で切り捨ててしまえる大人たちが、数多自立しているこの世をこそ、かんこは捨てたかった。ずっと、この世に自分が迷惑ばかりかけるから、社会の屑だから、消えなければならない気がしていた。だが、と思う。むしろ自立を最善の在り方とするようになったこの現代社会が、そうでなければ大人になれないなどと暖昧な言葉でもって迫る人里の掟じたいが、かんこにとってはすでに用済みなのかもしれない。かんこはこの車に乗っていたかった。この車に乗って、どこまでも駆け抜けていきたかった。
宇佐見りん「くるまの娘」(『文藝』2022年春季号)
機能不全家族とアダルトチルドレンについて語られる、依存は悪であり自立しなければならないという言説。小説家が、この小説を通して最も訴えたかったことは、こうした言説が信じられている現代社会への批判だったと推測する。
「依存と自立」の言説を否定するかんこが目指すのは、兄のように親から離れて、一人だけ救われるのではなく、「愛されなかった人間、傷ついた人間」のそばにいてともに救われる方法である。それはどのように可能なのか。
シェルターとしての車
兄も弟も出てしまい、家にいるのは両親とかんこのみ。このままでは、父の暴力はかんこに集中し、心身が破綻しかねない。アルコール依存の母のケアも本当は心の負担になっている。両親に寄り添いつつ、身を守る場所として選ばれたのが、車である。
かんこは、祖母の葬儀の後から半年もの間、家に駐めた車の中で寝起きしていた。学校へは母の運転で行く。トイレはコンビニや公園、風呂は銭湯を使った。なにより車にいる限り、父の暴力から逃れることができた。そのおかげか、心身に変化が起こり、学校に通うことが負担でなくなった。以前のように泣いたり、叫んだりすることも減った。
車上生活者となることで、かんこは父の暴力を避けつつ、母を励ますこともできる場所を手に入れた。それは親を遠ざけて、関係を断つのではなく、親との関係を維持しつつアダルトチルドレンが回復する一風変わった道筋でもある。
参考文献
信田さよ子『「アダルト・チルドレン」(Amazon)完全理解』(三五館)(Amazon)
信田さよ子『共依存 苦しいけれど、離れられない』(朝日文庫)(Amazon)
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