芥川龍之介の短編小説「羅生門」の解説。仕事と家を失った若い下人は、盗人になろうとするが、決心がつかない。ところが、羅生門での老婆との会話をきっかけに、悪の世界へ踏み込む勇気を得る。下人の心情の変化をたどることで、彼が盗人になることをなぜためらったのか、何から勇気を得たのかを考える。
高校国語の定番教材である「羅生門」。家も仕事も失った下人は、生きるためには盗人になる以外ないと思い詰める。しかし、決心がつかない。盗人たちが生きる無法の世界は、これまで主人に仕えて働いてきた下人にとって未知の世界だからだ。
誰だって、未知の世界に入るのは恐い。でも一度飛び込んでしまえば、そこは意外に楽しい世界で、うまくやっていけるのかもしれない。必要なのは未知の世界に飛び込む勇気だ。下人はその一歩を踏み出せずにいる。しかし、そしてあるきっかけが下人の背中を押す。この心情の変化をどう解釈するかが「羅生門」読解のポイントである。
あらすじと主な登場人物
舞台は平安時代の京都。平安京にある羅生門の下で、若い下人が雨宿りしていた。右の頬に大きな面皰があり、腰には太刀という風体。四、五日前に仕えていた主人から解雇されたばかりで、帰る家を失い途方にくれていた。このままでは餓死してしまう。「盗人になるよりほかに仕方がない」ことは明らかだ。しかし、下人にはそれを実行する勇気がなかった。
当時の京都は、地震や飢饉が続いて荒れ放題。羅生門には引き取り手のない死人が多数放置されていた。下人は、そんな羅生門で夜を明かそう考え、楼を上がるための梯子(はしご)を登っていった。楼の中に入るといくつもの死骸が転がっており、背の低い、痩やせた「猿のような老婆」が松明を頼りに、女の死体から髪の毛を抜いていた。それを見た下人の中に「はげしい憎悪」が沸き起こった。
下人は太刀に手をかけ、老婆の前に歩み出る。老婆は驚いて逃げようとするが、下人はそれを組み伏せて「何をしていた。云え」と命じる。観念した老婆は「この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたのじゃ」と答えた。
続けて老婆は、死体の女が蛇を切って干したものを、干魚と偽って売っていたことを引き合いに出し、「わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ」と自分を正当化した。
老婆の話を聞くうちに、下人の中に「勇気」が湧いてくる。「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」と告げると、下人は、老婆から着物を剥ぎ取り蹴倒した。そして、梯子をかけ下りていった。
登場人物の一覧表
主な登場人物は下人、老婆、死骸の女の3人。それぞれの説明は以下の表にまとめた。
下人 | 右頬に大きな面皰がある男。太刀を下げている。主人から解雇された |
老婆 | 背が低く、痩やせて白髪頭。猿のような印象。檜皮色の着物を着ている |
死骸(女) | 疫病で死んだ。蛇を干し魚と偽って売っていた |
時代背景
すでに述べたように「羅生門」の設定は平安時代(784~1185または1192年)である。小説を読むには、当時の身分や制度などの時代背景をある程度知っておく必要がある。以下にそれらを解説する。
下人
主人公は、小説の中では下人または男と表記される。下人は、平安以後の隷属民である。隷属とは、他の支配をうけて従属すること。当時下人は、荘園の地主・荘官や地頭などの主人に隷属して、家事、農業、軍事などの雑役を担った。
「羅生門」の下人も、どこかの主人に長年仕えていたが、「暇を出された」。つまり解雇されて、途方にくれていた。
羅生門(羅城門)
平城京と平安京に設置された正門のこと。京の南面中央にあり、朱雀(すざく)大路を隔てて朱雀門と対する位置にあった。816年に大風で倒壊し、すぐに再建された。980年に再度倒れてからはそのままになった。当時は、羅城門(らじょうもん)という呼び方だったが、後に羅生門(らしょうもん)と読まれるようになった。
検非違使(けびいし)
検非違使は、警察と裁判所をあわせたような組織で、所属する役人は武器を持ち犯罪を取り締まり、刑罰を決定した。その役所を検非違使庁と呼ぶ。検非違使庁の最下級の職の一つに放免がある。釈放された囚人がこれに任じられ、犯罪人の捜索・逮捕・囚禁または流人の護送などに従事した。小説では下人が老婆をねじ伏せた場面で「己は検非違使の庁の役人などではない」と言及する。
太刀帯(たてわき)
帯刀(たちはき)とも呼ぶ。武器を帯びて、主として天皇の身辺および宮中の警衛にあたった下級役人。彼らが御所警備のために集結する場所を太刀帯(帯刀)の陣という。
小説では、老婆が弁明する場面で「髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ」と言及する
下人は何を恐れているのか
すでに書いたように、下人は盗人になるつもりだったが、実行できずにいた。なぜか。盗人になること、つまり法を犯して、罪人になることを恐れているからだ。「下人が、永年、使われていた主人」という記述があることから、下人は主従関係という社会のルールを守り、真面目に生きてきたことが分かる。だからこそ、彼にとって法を犯すなど、あり得ないことなのだ。
下人には、法に従って生きる姿勢が染み付いている。それなのに悪の道に進まなければ生きられないとしたら、踏ん切りがつかなくても当然である。
下人が盗人になることをためらう理由は2つある。
1つ目の理由は、自分の中にある法や世の中の規範に守るという考え方を捨てられなかったことにある。こうした考え方は、下人に限らず、多くの人が当然のように持っているし、だからこそ、世の中の秩序が維持される。
仮に盗みを働けば、どうなるか。検非違使から追われ、逮捕されれば、牢獄に入れられる。2つ目の理由は、この検非違使に逮捕され、牢獄につながれる恐怖である。盗みを働いても、逮捕される心配がなければ、餓死を避けたい下人はそれほど迷わずに、盗人になっていた可能性が高い。つまり下人は権力を恐れていたのだ。
老婆を組み伏せた下人が言う「己は検非違使の庁の役人などではない」という言葉は、彼の中に権力への恐れが潜んでいることを示している。この直前に下人は、老婆が死体から毛を抜き取っている場面を目撃する。その時の下人の内面は次のように語られる。
この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死をするか盗人になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。
「羅生門」
ここで、下人は老婆が死体から髪を抜く行為を見て、まず「憎悪」、次に「悪に対する反感」を抱く。当時、死に対する「穢れ」の意識は強く、普通の人は死体に触れることを避けようとした。老婆の行為は、この「穢れ」の規範を犯すものだった。だから下人は、老婆の行為を嫌悪し、「憎悪」と「反感」を抱いたと考えられる。
下人は、すぐさま行動に出る。老婆に歩み寄り、逃げようとする彼女を取り押さえる。「老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されている」と認識したことで、下人の「憎悪の心」は冷めていった。これにより「安らかな得意と満足」にひたった下人は、老婆を見下ろしながら「己は検非違使の……」と告げた。
下人の老婆に対する一連の行動は、「憎悪」と「反感」に突き動かされたものだった。そのため、老婆の悪を目撃した時、下人は無意識のうちに自分を悪を取り締まる立場、言い換えれば権力の立場に置いていた。法や規範から逸脱した者は、検非違使に捕らえられる。そうした考えに、下人は強く縛られていた。だからこそ、ニセ検非違使である下人が、老婆を「支配」している限りは、内面の平静は保たれ、「安心」していられた。
下人は何から勇気を得たのか
下人は、老婆に何をしていたのかと問い、老婆が答える。この場面はこの小説を理解する上でもっとも重要である。老婆の説明を聞いた下人の心情が大きく変化するからだ。
下人に問われ、老婆は、髪を抜いてカツラを作ろうとしていたと告白する。そのカツラを売って、代金を得るつもりらしい。冷やかな表情で聞いている下人を見て、老婆はさらに続ける。「わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ」。
老婆が髪を抜いていた死体は女であり、蛇を切ったものを干魚と偽って売っていたという。しかも売った相手は、太刀帯の陣だった。上の「時代背景」で解説した通り、太刀帯は警備を担う役人であり、検非違使と同様に権力機構の一部である。死んだ女は権力をだまして、収入を得ていたというわけだ。今で言えば食品偽装であり、立派な犯罪だ。当時でも発覚すれば、罰せられる行為だったろう。
それにも関わらず、老婆は意外なことを言う。「わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ」。餓死にしそうな人間なら、権力を騙しても悪い事ではない。そして、老婆も餓死にしそうだったのだから、死体の髪を抜いたことも悪い事ではないと語っている。これは老婆が自己を弁護するため、自分に都合の良い話をしている可能性があり、簡単に信じるわけにいかない。なぜなら死人に口なしで、女が実際にそうした悪事を働いていたかは確かめようがないからだ。
しかし、下人は老婆の話を信じた。そして、そのことで彼がもっとも欲しかったものを手に入れる。
これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。
「羅生門」
下人は「勇気」を得た。その勇気は、老婆を捕らえたときの権力の立場で発揮された勇気ではない。盗人になる勇気であり、権力の立場から遠ざかるための勇気である。「反対の方向」とはそういう意味だ。
この時、なぜ下人の中に「勇気」が湧いてきたのだろうか。私の考えでは、下人は老婆の話から、あるメッセージを受け取っている。それは次のようなものだ。
下人よりも弱いはずの老婆や死んだ女が、法の外の世界で、うまく生き延びてきた。彼女たちは、権力を恐れることなく、ときに権力を出し抜いてずる賢く生きてきた。下人は、彼女たちの生き方を知り、自分にもできるはずだと確信した。それが下人の中に生まれた「勇気」の理由である。
原話と異なる老婆の振る舞い
芥川龍之介は、「羅生門」を書く際、「今昔物語集」の「巻二九第十八」に取材したことが知られている。小説と原話の違いは、いくつもあるが、ここでは、下人を前にした老婆の振る舞いに注目したい。下人が老婆の行為を問い詰める場面は、原話では以下のように語られている。
やはら戸を開けて刀を抜きて、「おのれは、おのれは」と言ひて、走り寄りければ、嫗、手まどひをして、手をすりてまどへば、盗人、「こは何ぞの嫗の、かくはし居たるぞ」と問ひければ、嫗、「おのれが主(あるじ)にておはしましつる人の失せ給へるを、あつかふ人のなければ、かくて置き奉りたるなり。その御髪の丈に余りて長ければ、それを抜き取りて鬘(かづら)にせむとて抜くなり。助け給へ」と言ひければ、盗人、死人の着たる衣(きぬ)と嫗の着たる衣と、抜き取りてある髪とを奪ひ取りて、下り走りて逃げて去(い)にけり。
「今昔物語集」(巻二九第十八)
原話の「嫗(おうな)」は老婆、「盗人」は下人を指す。「嫗、手まどひをして、手をすりてまどへば」とは、老婆が、うろたえて、手を擦り合わせる身振りをしていたという意味だ。さらに、「助け給へ」で、「どうか命だけは助けてください」と下人に訴えている。
以下は、「羅生門」の該当箇所である。
「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」
「羅生門」 ※「まぶた」は外字なので仮名で表記した
下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球が※まぶたの外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗く黙っている。
原話の老婆(嫗)が、手を擦って、命乞いをする弱々しい態度なのに対して、「羅生門」の老婆は、下人から太刀を突きつけられて、震えはするものの、命乞いなどせず、目を大きく見開いて「執拗く」黙秘を貫いている。「執拗く」は、執念深い、強情という意味だ。
この直前に、芥川は、原話にない、以下に引用する下人と老婆の格闘場面を追加している。この場面は、老婆の強情な性格をさらに際立たせている。
老婆は、一目下人を見ると、まるで弩にでも弾かれたように、飛び上った。
「羅生門」 ※「ね」は外字なので仮名で表記した
「おのれ、どこへ行く。」
下人は、老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵った。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人はまた、それを行かすまいとして、押しもどす。二人は死骸の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめからわかっている。下人はとうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへ※ねじ倒した。丁度、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。
「羅生門」の老婆は、検非違使らしき男(下人)が現れても、ひるまず相手を突き飛ばして逃亡を図ろうとする。さらに、圧倒的な体力差があっても、つかみあいを挑む。芥川が、権力に服従しない性格を老婆に付与したことが分かる。
法外の世界、悪の世界で生き延びてきた老婆は、ずる賢くしたたかだ。タフな老婆の振る舞いは、自分でも盗人としてやっていけるという自信を下人に与えたはずだ。
参考文献
小森陽一『大人のための国語教科書 あの名作の“アブない”読み方』(角川書店)
芥川龍之介『羅生門』のほか、森鴎外『舞姫』、夏目漱石『こころ』、中島敦『山月記』などを教科書の教師用指導書を参照し、その問題点を指摘しながら、作品を読解している。
国語教科書の作品解説
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