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【解説】観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生 栗木京子 意味・表現技法・文法

観覧車短歌
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栗木京子の「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日ひとひ我には一生ひとよ」の解説。青春の短歌として多くの人に親しまれているが、強く感じられるのは、恋に舞い上がる自分に対する冷めた視線である。この視線を持ち込むことで、心情を抑制的に表現することに成功している。

歌人・栗木京子(1954年生まれ)の第一歌集『水惑星』に収録された一首である。

観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日ひとひ我には一生ひとよ

栗木京子『水惑星』(雁書館、1984年)

カップルがデートで観覧車に乗っている情景だろう。男女が感じている思いの差を表現していると解釈すれば分かりやすい。詳しい解説は下の「鑑賞」に書いた。

読みと歌の意味

読みは以下の通り。
かんらんしゃ/まわれよまわれ/おもいでは/きみにはひとひ/われにはひとよ

観覧車よ回り続けてくれ。想い出は君にとっては一日のものにすぎないけれど、私にとっては一生のものである」という意味だ。

表現技法・句切れ

表現技法としては、「回れよ回れ」で反復法、「君には一日我には一生」で対句法が使われている。「一生」で終わるので体言止めである。

また、観覧車に「回れ」と命じているから、観覧車を人に見立てた擬人法である。句切れは、2回めの「回れ」の後で切れる、二句切れ。ちなみに、このような恋の歌を相聞歌という。

ここまでの内容を表に整理しておく。

表現技法反復法、対句法、体言止め、擬人法
句切れ二句切れ
収録歌集『水惑星』

文法・語句

文法として難しいところはない。

「回れ」は、動詞「まわる」(五段活用)命令形。意味は文字通り、「まわれ」である。

語句としては、通常「ひと世」と書いて、「ひとよ」読ませるところを、「一生」を「ひとよ」と読ませているところに特色がある。「ひと世」は、「この世に生きている間」であり、「一生」の意味があるので違和感はない。

同様の読ませ方をさせる例としては、北原白秋の短歌わざびとやわざに遊ぶといにしへは一生ひとよの命かけて愛惜をしみき」(『黒檜』)がある。

鑑賞

栗木京子は、1975年の角川短歌賞に、「観覧車」の歌を含む「二十歳の譜」50首で応募し、次席に選ばれた。栗木は、後に50首のうち21首を選んで歌集に収録した。例えば以下のような歌である。

かがみ込み数式を解く君が背の縫ひ目のほつれ見てをり我は
かたちなき思慕分かちては暗室に分光器プリズムのぞく瞳と瞳
蔑まれ蔑み返す目をもちて昨日の友よりアジビラを受く
草に寝て飛行機の影目に追へば矢となりて飛ぶ時の電離粒子プラズマ

『水惑星』「二十歳の譜」より

数式や分光器(プリズム)、電離粒子(プラズマ)といった理系学生に馴染みの用語が目につく。また学生運動の場面も出てくる。歌人の学んだ1970年代のキャンパスの雰囲気がくっきりと浮かび上がる。これらの歌から二十歳の学生が置かれた環境や生活の様子を理解できる。

こうした状況を頭に入れて、もう少し「観覧車」の歌について解釈を進めたい。

自分を見つめる冷めた視線

「観覧車」の歌に登場するのは、女にモテる男である「君」と人並みの女である「我」である。女がひそかに思いを寄せる男をダメ元でデートに誘ったら、予想外のOKの返事。めでたく遊園地に出かけることになった二人。

観覧車に乗ってゴンドラの中で男と二人切りになると、女は気分が高揚し「この想い出を一生忘れない」と思う。その一方で、相手の男にとっては、これまで何人もの女とデートをしてきた中の一日に過ぎない。女はそのことを十分に理解しており、虚しさを抱えている。だからこそ観覧車よせめて自分のために回り続けてくれと心の中で願っている。

観覧車のゴンドラという狭い空間を設定することで、外から見れば仲が良さそうに見える男女の間にも実は心情に大きな落差を抱えていることを、効果的に表現している。もう一つ重要なのは、語り手「我」が念願のデートにこぎつけて舞い上がっている自分を冷めた目で見ている点だ。

この歌が、相聞歌でありながら感情の抑制が利いた表現となっているのは、この冷めた目、言い換えれば自己批評の視線があることによっている。

落差と自己批評が生む構図

「観覧車」の歌で指摘した、二つの要素の落差と自己批評の視線は、栗木の短歌を特徴付ける手法である。『水惑星』では、この手法を用いて、いくつかの鮮やかな歌を生み出してる。

桃色の服をあてがふ試着室にコキブリの子の走り去る見ゆ
友の死を話題にしつついつになく生き生きと我ら菓子など食べぬ
トルソーの静寂を恋ふといふ君の傍辺(かたへ)に生ある我の坐らな
雲あまた湧く空の下わが腕に芯かたき李いだきて帰る

『水惑星』

1首目「桃色の服」の歌は、アパレルショップの情景である。店で自分に似合いそうな服を選んで、試着室に持ち込む。すると足元を茶色くて小さなゴキブリが一瞬姿を表し、逃げていく。華やいだ雰囲気の「桃色の服」と人をぎょっとさせる「ゴキブリの子」。これら二つの間にある印象の落差が強調される。

イメージを演出するショップの裏側、身も蓋もない現実を提示することで、消費の享楽に酔う自分を相対化してみせる。新しい服を買おうと高揚する自分を、もう一人の自分が冷めた目で見ている。ここには自己批評の視線がはっきりと表れている。

2首目「友の死」の歌では、死と生の落差が提示される。死んだ友のことを仲間で語り合いながら、それぞれがテーブルの上に置かれた菓子を口に運ぶ。親しかった人の死でさえも、生き残ったものの日常を変えることができないという身も蓋もない現実がある。冷たい目が、自分たちの行動の残酷さを浮かび上がらせる。

3首目「トルソー」の歌で詠まれているのも死と生の落差である。トルソーとは、頭部や手足のない胴体だけの彫像のこと。「坐(すわ)らな」の「な」は活用語の終止形に接続する終助詞「~したい」という願望を表わす。「坐(すわ)らな」で「すわりたい」という意味になる。

つまり、トルソーの静寂を好む「君」の横に、我は座りたいと主張している。ここでは生を抜き取られた「トルソー」に対して生きている我を対置している。死と生の落差を前に置いて、「我」の空回りしている気持ちを強調している。「君」と「我」の間にある落差を利用して、「我」の置かれた立場を冷静に見つめているという点では「観覧車」の歌と同じ構図である。

この歌の直前には、「議論より君と歩くが楽しきと口には出せず資料広ぐる」と詠まれており、「議論」と「歩く」が対置されている。この歌と合わせて、「我」は「君」の恋で、この先苦労するだろうことが示唆されている。

4首目「雲あまた」の歌の季節は夏である。空に入道雲が湧き、我は李(すもも)を抱いて家路につく。ここでは、柔らかく空高く膨らむ白い雲に対して、まだ熟しておらず皮に緑を残して芯の硬い李が置かれている。巨大な雲と小さな李。

一見して明らかなように、腕の中にある李は、語り手の自己像であり、精神状態を反映している。「我」は何かしら緊張を抱え、心は固く縮こまっている。そうした自分のあり様を李に重ねて観察している趣がある。

二つの物の間にある落差に着目し、そこに自分を重ねて相対化する方法は、自分の心情を批評的に眺めて表現する方法として効果を発揮していることが分かる。

参考文献

『栗木京子歌集(現代短歌文庫)』(砂子屋書房)
*第一歌集『水惑星』、第二歌集『中庭(パティオ)』の全編、第三歌集『綺羅』の50首を収録
依田公子『栗木京子の作品世界』(短歌新聞社)


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