【解説】列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし 寺山修司 意味・表現技法・文法

ひまわりと列車寺山修司
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列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし 寺山修司

主語の省略

この短歌は、主語が明記されていない。ここで列車から遠くのひまわりを見ているのは誰か。短歌の場合、主語が省略されている場合は、特別な理由がない限り語り手である「私」や「我(われ」「僕」といった一人称が省略されていると考える。この歌でも、やはり主語「私」を補って解釈する。

歌の意味

この歌の意味は次のようになる。

我が列車の中にいて、遠くに咲くひまわりを見ている。そのひまわりが少年のふる帽子のように揺れている。

少年(我、語り手)が故郷を出ていく場面が思い浮かぶ。

語り手である少年は何らかの理由があって、夏休みに故郷を離れて、都会に引っ越すことが決まった。急な話で、友達に伝えることができずにいた。親から口止めされているのかもしれない。いずれにしろあまり良い理由ではない。

友人に別れも告げず旅立つ寂しさを抱えて、車窓から外を見ていると、遠くにひまわりが揺れている。語り手は、その様子を友人が帽子を大きく振り、「向こうでもがんばれよ、元気でな」と自分に別れを告げている姿に重ねている。

表現技法・句切れ

この歌で使われる表現技法は多くない。一つ挙げるとすれば「帽子のごとし」で直喩(ちょくゆ)がある。直喩は、比喩法の一つで、「たとえば」「あたかも」「さながら」「如し」「似たり」などの語を用いて、二つの事物を直接に比較する表現法。たとえば「蚊が鳴くような声」といったかたちで使う。

もう一つの比喩法である隠喩(いんゆ)は、「…のようだ」「…のごとし」などを使わず、そのものの特徴を直接他のもので表現する方法。例えば「人生は旅だ」のようなかたちで使う。隠喩のことを暗喩、メタファーとも呼ぶ。

この歌は、五句で切れているので、「句切れなし」である。

文法

文法的にも難しいところはあまりない。敢えて挙げれば「帽子のごとし」に使われている「ごとし(如し)」だろう。

これは、同一であること、あるいは似ていることを表わす助動詞で、比況の助動詞とも言われる。助詞「の」「が」または活用語の連体形に接続する。

同一であることを表わす場合は、「…と同じだ」「…の通りだ」という意味。
似ていることを表わす場合は、「(まるで)…のようだ」「…に似ている」という意味になる。

活用はク活用型で「(〇)・ごとく・ごとし・ごとき・〇・〇」となる。

鑑賞 ― ふるさとに拒まれること

この一首は、寺山が高校生の時につくった「森番」と題された一連の中に収められている。以下に「森番」から印象的な歌を抜き出した。

果樹園のなかに明日あり木柵に胸いたきまで押しつけて画く

わが鼻を照らす高さに兵たりし亡父の流灯かかげてゆけり

秋菜漬ける母のうしろの暗がりにハイネ売りきし手を垂れており

ペダル踏んで花大根の畑の道同人雑誌を配りにゆかん

ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん

ふるさとにわれを拒まんものなきはむしろさみしく桜の実照る

「森番」『寺山修司全歌集』(講談社学術文庫)

父は亡く、母と二人で畑や果樹園がある田園地帯に暮らしている。おそらくはハイネの詩集だろう。それを古本屋に売って、漬物を漬けている母の後ろに立つ姿から、貧しさ暮らしぶりが感じられる。

先に「少年のふる帽子のごとし」の歌をふるさとを引っ越しの場面と解釈した。そして上に引用した「カンカン帽」の歌は、私の解釈では帰郷の歌である。しばらくぶりに帰ったふるさとの道をうれしそうに走っている。そして、故郷はそんな「われ」を拒むことなく、優しく受けいている。ところが「われ」はそれをさみしく感じている。なぜだろうか。故郷から拒まれたいのだろうか。

寺山の「むしろさみしく」の歌は、おそらく石川啄木の次の歌を念頭においている。

石をもて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし 石川啄木『一握の砂』

この歌には、近隣の人から石を投げつけられて、追い出されるようにして故郷をでなければならなかった者の悲しみが詠まれている。このとき故郷は、そしてそこに残る人たちは、敵として現れる。追い出された悲しみは一生消えない。ここには悲しみとともに故郷を憎む感情もまた込められている。

寺山の「われ」は優しく受け入れてくれる故郷に物足りなさを感じている。啄木が歌ったように、故郷から激しく拒まれたい。そして故郷を憎みたい。そんな倒錯した感情が連作「森番」から感じられる。

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