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【解説】わがシャツを干さん高さの向日葵は明日ひらくべし明日を信ぜん 寺山修司 意味・表現技法・文法 

ひまわり寺山修司
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わがシャツを干(ほ)さん高さの向日葵(ひまわり)は明日ひらくべし明日を信(しん)ぜん

現代語訳

私のシャツを干そうする高さのひまわりは明日ひらくはずだ。明日を信じよう。

もう少し言葉を補うと次のような意味になる。
私のシャツを(物干しに)干(ほ)そうとしていると、ちょうど同じぐらいの高さにひまわりが育っている。そのひまわりは、明日にも花を開くはずだ。明日を信じようと思う。

文法・品詞分解・句切れ

文法的に問題になりそうなのは、「干さん」「ひらくべし」「信ぜん」の3語だろう。順に見ていこう。

「干さん」は「干す」未然形助動詞「ん」終止形。助動詞「む(ん)」は推量・意志・適当・勧誘・婉曲・仮定の意味がある。ここでは、意志「~う」「~よう」という意味になる。

「ひらくべし」は、「ひらく」終止形助動詞「べし」終止形。「べし」は、推量・意志・当然・適当・命令・可能の意味がある。ここでは、推量「だろう」という意味だと考えられる。ただ、語り手は、ひまわりが開くことを確信しているととらえるなら、当然の意味の「はずだ」と解釈してもよさそうだ。

「信ぜん」は、「信ずる」未然形助動詞「ん」終止形。「信ずる」はサ行変格活用で、「ぜ・じ・ず・ずる・ずれ・ぜよ」と変化する。「む(ん)」は先述の場合と同じ、意志の意味である。

この歌は、下のように第4句にある「開くべし」の「べし」が終止形なので、下の「」の位置で文が切れ4句切れである。

わがシャツを 干さん高さの 向日葵は 明日 ひらくべし 明日を信ぜん

表現技法・解釈

シャツを洗って、今にも咲きそうなひまわりがあり、「明日」を2回繰り返して未来を「信じよう」という意志を表現している。これらの道具立てからして、この歌から前向きなメッセージを受け取るのは、当然だろう。

一方で、この歌は明るさだけを表現しているのだろうか、もっと違うメッセージも読み取れるのではないかという疑問が湧いてくる。表面的には明るいイメージで、リズミカルな歌だが、裏側には暗い現実が貼り付いている、というのが私の考えだ。以下でその点を分析したい。

明るさの面から見ていこう。まず、シャツを干そうとする動作が前向きな気持ちを伝える重要な役割を果たしている。シャツを広げて持ち上げながら、高い位置にある物干し竿にかける場面が思い浮かぶ。この動作に合わせて、読者の心の中の視線も自然と上向きになる。

そして見上げた視線の先に鮮やかな色彩が広がる。シャツの白、ひまわりの黄、その向こうに広がる空の青。シャツを洗濯したくなるほどの、からっと晴れた夏の気候は気持ちよさそうだ。

明るさは、音でも強調されている。直感的に「あ」段の音の多さに気づく。歌を5句に分かち書きし、それを仮名で表記した。

わがつを ほたかさの ひまわ すひくべ すをんぜん

これを見ると、31音のうち実に13音があ段(赤色)であることが分かる。「あ」には明るく、伸びやかで広がりのある印象がある。この「あ」が、5句全てに配置され、この歌の基調を作っている。さらに第1句の「わが」、第4、5句の「あす」で「あ」段の頭韻を踏むことで、明るいイメージを強調している。

一方、3つの「」が「あ」段の連なりの作るイメージを断ち切るような効果を上げている。「し」は、口を横に薄く開き、歯と歯の間から強く息を吐きながら発音する。この「し」が「あ」段の音がつくる明るい世界を鋭く切り裂いて、断層を生み出している印象がある。

つまり、歌の意味が表現している明るく前向きな世界を音の配列が裏切っている格好だ。こんな風に考えるのは、この歌を連作の1首として読んでいたことが影響しているかもしれない。

鑑賞

ストレートに未来への希望を高らかに詠んでいるように見えるが、そうではないというのが私の考えだ。既に解説したように、「ひらくべし」「信ぜん」という言葉が推量や意志の意味を伴うことに注意したい。私は、これらの言葉から未来を信じられなくなりそうなところで、ひまわりの力を借りてなんとか明日を信じたいという、少年の切実な声を聞く。

少年はなぜ未来を信じられないのか。この歌が置かれた文脈を知れば、「われ」が抱いている不信のありようを理解できる。この歌は、寺山の第1歌集『空には本』(1958年)の中の「浮浪児」と題された8首の連作のうちに見つかる。「浮浪児」には他に次のような歌が並ぶ。

口あけて孤児は眠れり黒パンの屑ちらかりている明るさに

広場さむしクリスマスツリーで浮浪児とその姉が背をくらべていたり

にんじんの種子吹きはこぶ風にして孤児と夕陽とわれをつなげり

寺山修司全歌集(講談社学術文庫)

8首のうち、7首は孤児か浮浪児が詠まれていて、その中にぽつんと、孤児も浮浪児も登場しない、向日葵の歌が置かれている。

高度経済成長が始まるのは1960年代以降であり、この歌が詠まれた当時、いたるところに貧しさがあった。「孤児と夕陽とわれをつなげり」と歌い、「われ」が浮浪児や孤児への共感を隠そうとしないのは、明日は我が身という意識があるのかもしれない。

希望は乏しく、先が見通せない暮らしの中で、太陽に向かってぐんぐんと伸びていく向日葵に、「われ」が明日を信じる勇気をもらったとしても不思議ではない。不信の中にかろうじて、信を得ようとしているのだ。歌が表現する明るく前向きな世界の裂け目から孤児と浮浪児が顔をのぞかせている。歌集の中の歌を知ることで、1首だけでは見えなかった歌の姿が見えてくる。

向日葵という主題

寺山は向日葵(ひまわり)という主題を好み、繰り返し詠んでいる。

一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき

列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし

向日葵は枯れつつ花を捧げおり父の墓標はわれより低し

寺山修司全歌集(講談社学術文庫)

いずれの歌でもひまわりは、未来や可能性を感じさせる記号として機能している。これらの歌も別の機会に解説したい。

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