「大説」ではなく「小説」
(※小説の終盤の内容に触れているので注意)
ここでようやく娘にとっての「女生徒」(b)が登場する。
「私」はウォークインクローゼットの中に蔵書を保管している。このクローゼットは、娘にとってこれまで鬼門だった。「子供を勉強好きにするには」「子供の自尊心はこうして育む」といった教育に関する本があり、「本の重みがそのまま体の上にのしかかってくるみたいな重たさが、しんどくてしかたない」と感じていたからだ。
しかし、娘は「私が生まれる前から存在しているあの女の人は、一体誰?」という問を押さえられず、クローゼットに忍び込み、母が読んできた本を眺めていく。そこには子供の教育に関する本があり、奥へ進むと赤ん坊のしつけや離乳食、胎教、妊娠・出産、結婚に関する本が並んでいる。それは、「ひとりの女の人がどうやってできあがっていったのかという、秘密のプロセスを勝手に解き明かす」ことに似ていると打ち明ける。
こうした「異空間」を巡るイニシエーション(通過儀礼)めいた行為を経て、娘はついに「女生徒」に出合う。これは中学校の図書館から持ち出された本であり、挟まれた貸し出しカードから母は中学の3年間に12回借りていた。
聡明な娘は、母が「女生徒」から大きな影響を受けていることを理解する。そして、母の「女生徒」を発見した経緯や「美しく生きたいと思います」という言葉について考えていることを、Youtubeで語る。
外出から帰ってその日の出来事をのんきに話す「私」に、娘は「もしかしてニュース見てないの」「今もたくさんの人が死んでいるんだよ」と訴える。しかし、「私」はテレビで悲惨なニュースを見たいと思わず、「何はともあれ、こうして家族が無事に生きていることに感謝する」という心情を吐露する。そして、外出中に娘のYoutube配信を聞いていた「私」はおもむろに「女性徒」について説明する。
あれが書かれたのは、一九三八年?一九三九年、だった?一九三九年っていったら、日本は中国と戦争していて、しかもこれからさらに大きな戦争が始まろうとしているときで、人がたくさん死んで、まさに小説の話なんかしている場合ではなかったんだろうけれど、でもそんなひどい世の中に『女生徒』は発表されたんでしよ。ある少女が送ってきた日記を、わざわざ小説に書き直して。それで一世紀近く経って、大説のほうはもうほとんど相手にされていないにしても、少なくとも小説のほうは、私もあなたも読んでいるじゃない?
「Schoolgirl」
ここで語られる「大説」とは、当時の軍事政権が掲げていた「大東亜共栄圏」の理念である。この「正義」が、欧米の植民地政策に対して戦う日本の後ろ盾であり、国民を戦争に駆り立てた。そうした大説が世の中を支配する中で、太宰治はあえて「女生徒」を書き、「美しく生きる」こと、小さなものに美を見出す態度を守ろうとした。そんな「女生徒」論を「私」は語っている。「大説」よりも「小説」。これは世の中の重大事件より、家族の無事を優先する態度に重なる。
母が珍しく力説するのを聞いた娘は「何かを思いついたみたいに、あ、と小さく口を開けたまま黙っている」。そして廊下へでて、おそらく自分の部屋に閉じこもる。その直後に娘のYoutubeでの語りが挿入される。
世界にはもっと解決しなければいけない問題が山ほどあって、貧困や、飢餓や、強制労働から救わなければいけない人たちが何百万人といるのに、最終的には私だって、自分のたったひとりのお母さんのほうがよっぽど心配で大事なんだ。
「Schoolgirl」
娘は母のメッセージを受けとめた。正義や革命よりも小さな現実、「美しく生きる」ことが大切だということを。しかし、同時に「私のお母さんだけは生きてほしい、そう思ってしまう自分がずるくて嫌だ」とも感じてしまう。娘がこの矛盾を整理するには、もう少し時間がかかりそうだ。
この小説を読んで、井上陽水が1972年にリリースした「傘がない」を思い出した。
「傘がない」(アルバム「断絶」より、Amazon Music)
都会では自殺する若者が増えている
井上陽水「傘がない」
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨 傘がない
行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
つめたい雨が今日は心にしみる
君の事以外は考えられなくなる
それはいい事だろう?
誰もが「正義」を語りたがるとき、誰かがこのような声を響かせる必要がある。
太宰治『人間失格』の解説記事はこちら。



コメント