太宰治『人間失格』のまとめ解説。詳しいあらすじのほか、主人公の大庭葉蔵、友人の堀木、監視役のヒラメ、ツネ子やシヅ子といった主要人物の相関図で人間関係を示した。読解のポイントや知っておきたい時代背景も説明。読書感想文のヒントも紹介する。
『人間失格』の主人公、大庭葉蔵は一言で形容するなら「嫌味なヤツ」である。家が金持ちで、勉強が出来て、絶妙なボケで笑いを取るクラスの人気者。おまけに美男子で女にもてる。誰もが羨むような境遇にある。葉蔵は、そんな自分を自慢気に語る。
ところが、内側には外からはとても想像できない苦悩が渦巻いている。彼は他人の考えていることが分からず、世の中のルールを理解できない。だから葉蔵は「自分の言動に、みじんも自信を持てず」、自分を見失っている。そして苦しみから逃れる方法として「道化」を選ぶ。
彼は、いつも周りの顔色を過剰に気遣い、喜ばせようとおどけてみせる。そして自分の意見や考えを主張せず、相手の意向を受け入れてしまい、後で苦しむ。このように自分を消して、演技に徹することで、彼は家族や学校の中で自分の居場所を見つけるのだ。そして、東京の高等学校に進学。前途有望な人生を歩むかと思ったが、実際はしくじりの連続で、落ちぶれていく。
『人間失格』はなぜ人気があるのか
葉蔵の自慢話の裏には、苦悩が張り付いている。すでに述べたように。この苦悩から逃れるため道化を演じる。クラスの人気者になるのも、女にもてるのもこうした道化の結果であるところが大きい。葉蔵が、道化に徹するほど周りが笑い、女が寄ってくるというねじれた状況がある。普通だったら、読者は葉蔵の自画自賛に良い印象を抱かないはずだが、羨ましいほどの好条件を備えた男が苦悩するという告白に興味を抱くのではないか。『人間失格』が夏目漱石の『こころ』と並んで、未だに人気があり、若者を中心に多くの人に読まれ続ける理由がここにある。
多くの読者を引きつける要素は他にもある。周りの人に気に入られようとして、あるいは嫌われることを恐れて「本当の自分」とは違うキャラクターを演じてしまう態度、いわば「空気を読む」ことは、誰にでもある。特に思春期には、こうした自分の性格に悩む人は少なくない。中学時代の葉蔵のクラスでの振る舞いは、リアルに描かれていて、10代の読者は大いに共感するだろう。
読書感想文の題材に『人間失格』を選ぶ中学生、高校生が多いのもうなずける。葉蔵のような中学生は、大人になってどんな人生を歩むのか。若い読者は自分の未来を覗き込むようにして、葉蔵の語りに入り込んでいくはずだ。
では葉蔵のこうした性格はどこから生まれたのか。幼い頃の女中や下男から受けた性的虐待が影響しているのかもしれないが、はっきりしたことは分からない。とにかく、自分を主張せず、周りに合わせてしまう性格が、数々の騒動を引き起こし、葉蔵を追い詰めていく。それを「恥の多い生涯」として語ったのがこの小説である。
次にあらすじと主な人物を整理し、その後で「悪友」堀木との関係を中心に読みのポイントを解説する。
人間失格(Kindle版)無料あらすじと主な登場人物
この小説は、小説家である「私」が、大庭葉蔵が書いた手記に「はしがき」「あとがき」を付けて発表したという体裁をとっている。手記は、第一から三まであり、ページ数にして約半分を占める第三の手記のみ、一、二の二部構成。以下、「はしがき」と「あとがき」の内容、および3つの手記のあらすじを整理した。またそれぞれの手記について登場人物の関係図を作成した。
主な登場人物一覧
語り手 | 大庭葉蔵(主人公。成績優秀で女性にモテる。人間不信の傾向) |
家族 | 父(議員、東京に別荘がある)、兄(温泉地の家を購入) |
友人 | 竹一(中学)、堀木(高等学校以降、悪友) |
監視役 | 渋田(通称ヒラメ、下宿先) |
女性 | ツネ子(カフェの女給、情死の相手)、シヅ子(雑誌記者、子持ち)、 マダム(バーを経営)、ヨシ子(タバコ屋の娘、内縁の妻) |
「はしがき」
「私」(手記の語り手・葉蔵とは別人)が、「その男」の写された三枚の写真について語り、これから登場する手記の主人公・大庭葉蔵についての予備知識を与える。
一枚は、十歳前後の少年が女に囲まれて、醜く笑っている写真。「私」はその少年の笑顔を「イヤな薄気味悪いもの」と形容し、「猿の笑顔」とも言う。
もう一枚では、制服姿の美貌の学生が微笑している。しかし、「私」は「どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて来る」と語る。
最後の一枚では、「としの頃がわからない。頭はいくぶん白髪」の男が、汚い部屋で火鉢に両手をかざしている。その写真は「見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせる」。
「第一の手記」:幼少期 道化に目覚める
簡単なあらすじ
主人公・大庭葉蔵は東北の裕福な家庭に生まれた。父は議員していて、兄や姉など10人ほどの家族、女中や下男と暮らしている。葉蔵は、学校の成績は優秀だが、人や世の中のことが分からないという恐怖を抱いていた。その恐怖が原因で、本当の自分を隠して道化を演じてしまう癖があった。家族や女中らを笑わせているうちに、彼の道化も板についてくる。
下の図1は、「第一の手記」で書かれた幼少期の葉蔵についのて情報と人間関係を整理した相関図。
詳しいあらすじ
「第一の手記」では、葉蔵の幼少期の経験が書かれる。葉蔵は、東北地方の田舎に生まれた。家は「10人ぐらい」の大家族で、女中、下男がいる。父は「議員」で、東京に別荘を持っている。女中(じょちゅう)は、住み込みで炊事や掃除などをする女性のこと、下男(げなん)は、同じように雑用をする男性のこと。簡単に言えばどちらもお手伝いさんだ。こうした人を雇えるほど、葉蔵の家は金持ちだった。少年雑誌を毎月十冊以上読んでいたというから、子供ながらにかなり贅沢をしていた。学校の勉強はよく出来て、「通信簿は全学科とも十点」。10点満点評価で、全教科満点だったのだからかなりの秀才だ。
他人からは何不自由ない生活を送っているように見える葉蔵だが、人に言えない悩みを抱えていた。他人のこと、世の中のことが理解できないという悩みだ。その象徴的な例として葉蔵は、「空腹」の感覚がないことを挙げる。葉蔵は腹が減ったことに気づかないため、学校から帰って周囲の人から「おなかが空いたろう」としきりにお菓子をすすめられても、なぜそうされるのか理解できなかったという。そこから「人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう」と疑問を抱き、「人間の営みというものが未いまだに何もわかっていない」と考える。その結果、人に対して不安と恐怖を感じてしまう。
考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。
太宰治『人間失格』
自分だけが周囲の人たちとは違うのではないか。こうした不安と恐怖から逃れるために考え出したのが「道化」である。それは絶えず笑顔をつくり、本当の事を言わず、口応くちごたえもしない、言い争いも自己弁解もしない態度である。自分を隠して演技を続けているうちに、葉蔵は小学生ながら立派な道化になっていく。
「第二の手記」:中学校時代 竹一に道化を見破られる
簡単なあらすじ
中学校に入学した葉蔵は、クラスで道化を演じて人気者になる。下宿先の姉妹にも道化を披露して好意を持たれている。しかし、同じクラスの竹一に道化を見破られてしまう。それを口止めしたい葉蔵は、竹一と親しくなる。そして竹一にだけ素の自分を見せるようになった。
下の図2は中学時代の葉蔵と関係する人物の情報を整理した相関図。
詳しいあらすじ
「第二の手記」では、中学校から高等学校までの葉蔵が語られる。
中学校でも葉蔵は成績優秀だった。人への恐怖心も変わらず、道化と演技を続けていた。葉蔵の道化ぶりは、すっかり板についてきて「いつもクラスの者たちを笑わせ」ていた。ところが一人の級友に演技を見破られる出来事があった。体育の時間に葉蔵は、笑いを取ろうとして鉄棒から落ちた。狙い通り大笑いされたが、授業を見学していた竹一(たけいち)は、葉蔵に近寄って「ワザ。ワザ」と囁いた。葉蔵がわざと落ちたことを指摘したのだ。
竹一は、体が貧弱で、成績は悪く「白痴に似た生徒」だった。いつも誰かのお古らしい、サイズの合っていない上着を来ていた。葉蔵は、自分より格下だと思っていた竹一に秘密を見られて動揺する。演技であることを他の人に広められることを恐れ、葉蔵は竹一と親友になって口封じることにした。
ある日の放課後、雨の中、葉蔵は竹一を自分の家まで連れて行く。部屋に入ると、「耳が痛い」と言い出した竹一に膝枕をして、葉蔵は耳を掃除してやった。気分が良くなった竹一は、葉蔵に「お前は、きっと、女に惚(ほ)れられるよ」と予言めいたことを口にする。
葉蔵は、女を「不可解で油断のならぬ生きもの」だと思っていた。その一方で、多くの女が自分の道化を好むことを知っていた。実際葉蔵が、下宿先の姉妹に喜劇役者の真似を披露すると、彼女らは葉蔵に好意を抱いて度々部屋にやってくるようになる。
ところで竹一は、葉蔵についてもう一つ重要な予言をした。葉蔵は、絵を描くことが好きだったが、気を許していた竹一にそのいくつかを見せた。そして竹一は、「お前は、偉い絵画きになる」と告げた。後に、葉蔵は仕事で漫画を描くようになるが、「偉い絵描き」にはならなかったので、後者の予言は的中しなかった。
葉蔵はその後の人生においてもこれら2つの予言を何度も思い出すことになる。
「第二の手記」:高等学校時代 ツネ子と心中事件を起こす
簡単なあらすじ
葉蔵は、上京して高等学校に進学する。絵の勉強をするため通い始めた画塾で、堀木正雄と親しくなり、彼から酒やタバコなどを教えられる。夜の街で遊びを覚えた葉蔵は、カフェの女給・ツネ子と関係を持つ。そしてツネ子と心中するが、葉蔵だけが生き残る。
下の図3は、葉蔵の高等学校時代の人間関係を整理した相関図。
詳しいあらすじ
中学を卒業した葉蔵は、東京に出て高等学校に進学する。さらに絵の勉強をするため、洋画家が開く画塾にも通った。そこで、6つ年上の堀木正雄と出会う。堀木は「前から、お前に眼をつけていたんだ」と言い、葉蔵から金を借りて飲みに連れ出す。そして、都会生活の先輩として田舎から出てきた葉蔵に酒のほか、タバコ、女遊び、左翼思想、質屋を教えた。
ここでいう「左翼運動」とは、カール・マルクスの思想に影響を受け、共産主義革命を目指す運動のこと。小説の中では、「れい(例)の運動」「れいの地下運動」という言い方をしている。この小説の時代設定(1930年ごろ)には非合法の活動だった。「世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく」感じる葉蔵にとって、非合法であることがかえって「居心地がよかった」。そのため、葉蔵は左翼運動に深入りしていく。
葉蔵は、堀木のことを「東京のよい案内者」と考えて付き合っていた。しかし、次第に敬意を失い、「ただ遊ぶだけだ、遊びの相手として附合っているだけだ、とつねに彼を軽蔑けいべつし、時には彼との交友を恥ずかしく」感じるようになった。それでも堀木との関係はずるずると続いていく。
この時期、葉蔵は東京にある父の別荘に住んでいた。しかし、父の議員の任期が切れたことから別荘を引き払い、葉蔵は古い下宿に引っ越した。それまで父のツケで何でも購入できたのが、このときから毎月の送金で生活することになった。贅沢な生活はすぐに変えられず、実家に追加の送金を頼んだり、質屋に通ったりした。金が手に入ると堀木と飲み歩く。同時に左翼運動の手伝いも忙しい。次第に学校は休みがちになり、出席日数が足りなくなる。
女に「惚れられる」葉蔵の本領は、この頃から本格的になる。この頃、葉蔵に対して「特別の好意を寄せている女が、三人」いた。下宿屋「仙遊館」の娘、左翼運動の同志、カフェの女給(ツネ子)の3人だ。葉蔵にその気はないのだが、3人の女が一方的に好意を持っているという関係だ。この中で特に、ツネ子は葉蔵にとって重要な役割を担う。ツネ子には、詐欺罪で収監されている夫がいた。それでも葉蔵は、ツネ子と一夜を過ごし、他の女からは得られなかった「幸福」を感じ、生まれて始めて恋心を抱く。
そのツネ子から「死」という言葉が出たことで、葉蔵も死へと持ちが傾く。その頃、金作への疲れ、忙しさを増す左翼運動、学校の出席日数不足などが重なり、葉蔵は精神的に追い詰められていた。そして「みずからすすんでも死のうと、実感として決意」。二人は、鎌倉の海へ飛び込んだ。ところがツネ子だけが死に、葉蔵は助かる。
この件は、父の名前が世の中に知られ、葉蔵が高等学校の生徒だったことから新聞で取り上げられるほどのニュースになった。その後、葉蔵は警察の取り調べを受けるも、起訴猶予となった。
「第三の手記 一」:同棲時代 子持ちのシヅ子と同棲
簡単なあらすじ
心中事件で起訴猶予となった葉蔵は、ヒラメこと渋田の家に下宿していた。しかし、ヒラメの監視から逃れるために、堀木の家を訪問する。そこで雑誌社に務めるシヅ子と出会う。そのまま意気投合し、シヅ子の家に同棲。葉蔵は連載漫画の仕事も得て、暮しが軌道に乗り始めたかに見えた。しかし、シヅ子と娘のシゲ子が幸福そうに笑う姿を見て、家を出てしまう。
以下の図4は、同棲時代の相関図。
詳しいあらすじ
起訴猶予となった葉蔵は、ヒラメこと渋田の家に下宿する。少額の生活費が故郷から送られてきたが、まずヒラメが受け取ってから葉蔵に渡された。高等学校は退学させられた。ヒラメは、再び心中事件を起こされては困ることから葉蔵の外出を制限した。
ある日、ヒラメから今後の身の振り方を質問され、葉蔵は画家になるつもりだと答える。これをヒラメは軽蔑するように笑い、「そんな事では話にも何もならぬ」と相手にしない。葉蔵はたまらずヒラメの家を飛び出して、堀木の家に向かう。
堀木の家では、堀木の母がおしるこを出してくれる。その母に対して堀木は「おふくろが、わざわざ作ってくれたんだ。ああ、こいつあ、うめえや。豪気だなあ」などとお世辞を言って、ご機嫌を取る。葉蔵は、そうした堀木の意外な一面を見て、「堀木にさえ見捨てられたような」気分を味わう。
そこへ雑誌社の女性記者、シヅ子がやってくる。堀木に依頼したイラストを受け取りにきたのだ。葉蔵は、シヅ子とともに堀木の家を後にして、なんとそのままシヅ子の家に住み着いてしまう。そこからシヅ子とその娘で5歳のシゲ子、葉蔵の3人の暮しが始まる。葉蔵は仕事に就いていないので、「男めかけみたいな生活」だった。
そのうち自分で使える金が欲しくなった葉蔵は、「絵だって僕は、堀木なんかより、ずっと上手なつもりなんだ」とアピールして、シヅ子に連載漫画の仕事を手配してもらう。娘のシゲ子とも打ち解けて、葉蔵は「お父ちゃん」と呼ばれるようになる。同棲生活が軌道に乗り始めたところへ、久しぶりに堀木が金を借りにきて、葉蔵の漫画について「デッサンが、ちっともなってやしないんだから」と嫌味を言ったり、「お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」と説教めいたことを口にする。
これをきっかけに、葉蔵は自分の意志で動けるようになり、少しわがままになった。そして一人飲み歩くようになる。
銀座で飲み、二晩つづけて外泊してアパートの前までくると、シヅ子とシゲ子の笑い声が聞こえる。部屋を覗くと、ウサギの子が跳ね回っていて、親子でそれを追いかけていた。それを見た葉蔵は、「幸福なんだ、この人たちは。自分という馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を滅茶苦茶にするのだ」と思って、そのまま家に帰らなかった。向かった先は、京橋のすぐ近くのスタンド・バー。その二階で、今度はバーのマダムと同棲を始めた。
同時に、葉蔵は、バーの向かいにあるタバコ屋の娘から毎日酒を飲んでいることを心配され、彼女に好意を抱く。そして結婚したいと思う。
「第三の手記 二」:結婚時代 妻・ヨシ子の不祥事から脳病院へ
簡単なあらすじ
葉蔵は、タバコ屋の娘を内縁の妻とし、幸福な暮らしを営んでいる。そこへ堀木が金を借りにやってくる。堀木と葉蔵がアパートの屋上で酒盛りをしている最中、ヨシ子が襲われる。その事件から葉蔵の苦悩が深まり、睡眠薬自殺を図るも未遂に終わる。実家の指示で葉蔵は脳病院に入院させられる。退院後は温泉地の一軒家で養生することになる。
下の図5は結婚時代の相関図である。
詳しいあらすじ
葉蔵は、世話になったバーのマダムの家を出て、タバコ屋の娘・ヨシ子を内縁の妻として所帯を持つ。その際、葉蔵はマダムの「義侠心」に縋ったという。これは別れるに当たって、マダムはこれまでの関係に執着することなく、葉蔵の幸せを考えて快く送り出してくれたということだと思われる。
葉蔵は、アパートに部屋を借り、酒を止めて漫画の仕事にも力を入れるようになる。夕食後には妻と映画を見に行ったり、帰れに花の鉢を買ったりと幸福な生活を手に入れる。
しかし、またもや堀木が姿を現し、再び二人で飲み歩く生活に戻ってしまう。ある日堀木が金を借りにやってきて、そのままアパートの屋上で飲み始める。飲みながら二人は、対義語(アントニム)を言い当てるアント・ゲームをする。
葉蔵が「恥」の対義語を問うと、堀木は「恥知らずさ。流行漫画家上司幾太」と答える。葉蔵が「堀木正雄は?」と返すと、堀木は「生意気言うな。おれはまだお前のように、繩目の恥辱など受けた事が無えんだ」と感情をあらわにする。堀木は葉蔵のことを格下に見ている。葉蔵はそのことを堀木の言葉から理解する。
さらにゲームは続き、「罪」の対義語に移っていた。葉蔵が罪の対義語について思案しているときに、堀木が「腹がへったなあ」とぼやいた。それにイラついた葉蔵は「君が持って来たらいいじゃないか!」と言う。
このとき、ヨシ子は部屋で空豆を似ていた。堀木は、「ようし、それじゃ、したへ行って、ヨシちゃんと二人で罪を犯して来よう」という思わせぶりな言葉を残して、階下の葉蔵たちの部屋に降りていく。そこで、堀木はヨシ子が出入りの商人に「汚され」ている現場を目撃する(※この事件を便宜的に「空豆事件」とする)。
この事件以降、葉蔵にヨシ子に不信感を抱きはじめ、酒浸りになる。泥酔して帰宅した夜、葉蔵は台所で、致死量を超える睡眠薬を発見。そのすべてを飲み込んだ。しかし、自殺は未遂に終わる。
一命はとりとめたものの生活は変わらず、家にいたくない葉蔵は飲み歩く。そして雪の降る夜の銀座で喀血する。慌てて近くの薬局屋に入り、モルヒネを含む薬を購入する。これ以降葉蔵は、モルヒネ中毒になり、度々薬局に足を運ぶ。そのうち薬局屋の奥さんとも「醜関係」を持ってしまう。
薬代の借りが膨れ上がり、葉蔵は「死にたい」と思い詰めるようになる。事態を打開するため、決死の思いで父に事情を説明する手紙を出す。するとヒラメと堀木がやってきて、葉蔵を自動車に乗せて、詳細を説明しないまま「脳病院」を連れて行った。葉蔵はそのまま入院。
脳病院は、今でいう精神科のある病院のこと。自分が入れられた場所を理解したとき葉蔵は、絶望する。
人間、失格。
太宰治『人間失格』
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。
葉蔵が入院している間に父が他界する。父の死を機に兄は葉蔵を許し、東北の温泉地に古い家を購入。葉蔵はそこで老女中のテツと暮らし、療養することになった。
葉蔵はこれまで生きてきた中でつかんだ人間社会の真理として次の言葉を書いて、手記を終える。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
太宰治『人間失格』
「あとがき」
「はしがき」に出てきた「私」が再び登場し、千葉県・船橋市に疎開している友人を訪れる。そこで偶然入った喫茶店を営んでいたのが、以前立ち寄ったことのあるスタンドバーのマダムだった。「私」はマダムから「小説の材料になるかも知れませんわ」と言われ、葉蔵が書いた手記と三葉の写真を渡される。それを読んだ「私」は「下手に私の筆を加えるよりは、これはこのまま、どこかの雑誌社にたのんで発表してもらったほうが、なお、有意義」と判断し、マダムにしばらく貸してほしいと申し出る。
マダムは、手記が「十年ほど前に、京橋のお店」に送られてきたことを伝える。そして最後に葉蔵のことを懐かしむ。
「あのひとのお父さんが悪いのですよ」
太宰治『人間失格』
何気なさそうに、そう言った。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」
解説:葉蔵の幸せを邪魔する堀木
上で書いたあらすじを踏まえて、小説の中身を解説する。この小説を読む切り口はいくつもあると思うが、ここでは、葉蔵が追い詰められた原因はどこにあったのかを考えてみたい。
葉蔵自身にも、かなり問題があるのは確かだ。自分の考えを主張しないで周りに流されてしまったり、勉強が出来て、美男子であることを鼻にかけたところがあったりする。またいかにも金持ちの家のお坊ちゃんという雰囲気がにじみ出ていて、漬けこまれるスキもある。
しかし、こうした葉蔵の欠点はここでは、置いておく。誰にだって多かれ少なかれ良くないところはあるからだ。それよりも、葉蔵と人との付き合い方、特に堀木正雄との関係に着目し、何らかの教訓を引き出したい。
私の見たところでは、葉蔵は、堀木との距離の取り方に失敗して、人生の坂を転げ落ちていったところが多分にある。葉蔵が、堀木との関係を早い段階で断つことができれば、これほど酷いことにはならなかったと思う。
堀木のルサンチマン
堀木とは、どのような人間なのか。ひとことで言えば、ルサンチマンに支配された人間である。ルサンチマンとは、怨恨、憎悪、嫉妬などの感情が心に充満した状態のこと。ルサンチマンに支配された人間は、不幸な境遇にいる自分に我慢ならず、満たされている他人の足を引っ張って引きずり下ろそうとする。
堀木の実家は下駄の製造を生業としており、慎ましい生活をしている。そんな堀木からすると、葉蔵はあらゆるものを手にしているように見えたはずだ。堀木のルサンチマンは、葉蔵に向けられ、葉蔵が生きる邪魔をする。この小説の中で、葉蔵が幸せを手に入れようとすると、必ずといっていいほど堀木がやってきて邪魔をするところからそれが分かる。
「貧乏くさい女」が心中の引き金に
堀木が葉蔵の幸せに水を差す場面を見てみよう。高等学校時代に葉蔵は、カフェの女給、ツネ子と一夜を共にする。それは、葉蔵にとって、「恐怖からも不安からも」解放された、「幸福」な一夜だった。
その後、葉蔵は堀木と連れ立って、ツネ子の勤めるカフェを訪問する。この時堀木は、「おれの傍に坐った女給に、きっとキスして見せる」と意気込んでいた。彼らが店に入ると、堀木の隣に座ったのは、事情を知らないツネ子だった。
堀木はツネ子の顔を見るなり、「さすがのおれも、こんな貧乏くさい女には」と言ってキスをしなかった。それを聞いた葉蔵は、「霹靂(へきれき)に撃ちくだかれた思い」を抱き、「ツネ子がいとしく、生れてこの時はじめて、われから積極的に、微弱ながら恋の心の動くのを自覚」する。そして翌日の夜、葉蔵とツネ子は入水する。
このとき、堀木が葉蔵とツネ子の関係を事前に知っていた形跡はない。だから「貧乏くさい女」という言葉も葉蔵に悪意を持って発したわけではないと思われる。しかし、結果としてこの言葉が、葉蔵のプライドを傷つけ、ツネ子との心中に向かわせたといえる。これが、堀木が葉蔵の幸福を邪魔しに来た最初の出来事だった。
「女道楽ものこのへんでよすんだね」から同棲解消へ
2度目は、葉蔵が、雑誌社に勤めていたシヅ子と同棲しているときだ。葉蔵は、シヅ子の娘、シゲ子とも良い関係を築き、漫画の仕事が成功しかけていた。しかし、そこへ堀木が金を借りにやってくる。
「第三の手記 一」の「詳しいあらすじ」に書いた通り、堀木は、葉蔵の漫画について「アマチュアには、こわいもの知らずの糞度胸があるからかなわねえ。しかし、油断するなよ。デッサンが、ちっともなってやしないんだから」に説教めいたことを言う。さらにシヅ子との関係を念頭に「お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」と釘を刺す。
この言葉には、葉蔵に対する堀木の嫉妬が表れている。葉蔵は、内心では堀木のことを軽蔑していて、絵も自分の方が上手いと思っている。そして道楽でツネ子たちと暮らしているわけではなかった。だから、堀木の言葉に、葉蔵は穏やかでいられない。この時の心の傷を引きずったまま、葉蔵は夜飲み歩くようになる。そして、シヅ子と娘の「幸福そうな低い笑い声」を聞き、自分には彼女らと暮らす資格がないと思い、家を出てしまった。
「ヨシちゃんと二人で罪を犯して来よう」から睡眠薬自殺
「第三の手記 二」でタバコ屋のヨシ子と葉蔵の暮らしが壊れるきっかけを作ったのも堀木だった。この時、葉蔵はヨシ子との木造アパートの一室での生活によって、ささやかな幸せを手にしていた。
酒は止めて、そろそろ自分の定った職業になりかけて来た漫画の仕事に精を出し、夕食後は二人で映画を見に出かけ、帰りには、喫茶店などにはいり、また、花の鉢を買ったりして、いや、それよりも自分をしんから信頼してくれているこの小さい花嫁の言葉を聞き、動作を見ているのが楽しく、これは自分もひょっとしたら、いまにだんだん人間らしいものになる事が出来て、悲惨な死に方などせずにすむのではなかろうか(略)
『人間失格』
そこに堀木が金を借りに現れる。彼は、別れたツネ子の話題を持ち出して葉蔵に「恥と罪の記憶」を蘇らせる。過去の傷口を開かれた思いの葉蔵は、いてもたっても居られなくなり堀木と飲み歩くようになる。そして、ある日、「第三の手記 二」の「詳しいあらすじ」で書いた、空豆事件が起こる。
この時、事件の第一発見者となったのは、堀木だった。その直前にヨシ子が茹でていた空豆を取りに、堀木が、屋上から降りていく際「したへ行って、ヨシちゃんと二人で罪を犯して来よう」と伏線めいた言葉を口にしていたことに注意したい。堀木は、葉蔵の幸せな生活を壊すために、何らかのかたちで、商人に吹き込んで事件のきっかけを作ったのではないかと考えることもできる。この後、あらすじに書いた通り、葉蔵は睡眠薬自殺を図り、未遂に終わる。
葉蔵を「脳病院」に送り込む際にも堀木は、ヒラメとともに重要な役割を果たした。そして葉蔵は、「人間、失格」「完全に、人間で無くなりました」と思い詰めるところまで追い込まれるのだ。
人間失格(Kindle版)無料ルサンチマンに気をつけろ
葉蔵が、堀木のルサンチマンに早い段階で気付き、彼との関係を断つことができたら、どこかで幸せな暮らしを手に入れたかもしれないし、人間を失格することもなかったかもしれない。しかし、葉蔵にはそれが出来なかった。それは、葉蔵も堀木のような人間を必要としていたからだ。葉蔵は、堀木について語る。
自分と堀木。形は、ふたり似ていました。そっくりの人間のような気がする事もありました。もちろんそれは、安い酒をあちこち飲み歩いている時だけの事でしたが、とにかく、ふたり顔を合せると、みるみる同じ形の同じ毛並の犬に変り降雪のちまたを駈けめぐるという具合いになるのでした。
『人間失格』
自分と似た者同士であり、堀木がいることで、葉蔵はどこか安心や慰めのようなものを得ていた。だから、唯一の友人でもある堀木を遠ざけることはできなかった。しかし、葉蔵は、小説の終盤、堀木とアント(対義語)遊びをするうちに、彼の本心にようやく気付く。
堀木は内心、自分を、真人間あつかいにしていなかったのだ、自分をただ、死にぞこないの、恥知らずの、阿呆のばけものの、謂いわば「生ける屍しかばね」としか解してくれず、そうして、彼の快楽のために、自分を利用できるところだけは利用する、それっきりの「交友」だったのだ(略)
『人間失格』
しかし、時既に遅し。この直後、空豆事件が起こり、葉蔵は脳病院に収容される。
幸せを手に入れるためには、それを邪魔する人間、ルサンチマンに支配された人間から逃げなければいけない。それが唯一の友であっても、関係を断つ勇気が必要だ。
読書感想文のヒント
小説の読書感想文では、自分が登場人物の立場だったらどう考えて、行動するかを想像しながら書くのが一つの方法だ。『人間失格』の場合なら、主人公の葉蔵に焦点を当てる人が多いだろう。
葉蔵の人に流されやすく自分で判断して決められない性格や本心を隠して演技してしまう行動は誰にでも心当たりがあるはず。そういう意味で書きやすすそうだ。
もう一つ、友人の堀木に着目する方法もある。この場合は、上に書いた堀木の葉蔵に対する嫉妬心(ルサンチマン)がポイントになる。自分がクラスメートや友人、兄弟姉妹に抱く嫉妬心と堀木のそれを比べながら書くと良い。
自分は誰に対して、どんな嫉妬心を抱いたか。その後でどう思ったか。そして、堀木の言動に何を感じたか。これから自分は嫉妬心とどう向き合っていくつもりか。これらのことを文章にしていく。
嫉妬心は醜い感情であり、人には知られたくない部分だが、それをあえて言葉にすることで、読む人の心を打つ感想文になるにちがいない。
読書感想文の書き方については、以下の記事に書いた。
参考文献
高田知波著『<名作>の壁を超えて-『舞姫』から『人間失格』まで』 翰林書房
関連記事 映画『人間失格』、「走れメロス」ほか
以下は、太宰治の晩年を妻、二人の愛人との関係を軸に描いた映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』の解説(相関図入り)。玉川上水に入水自殺するまで追い詰められていく太宰を小栗旬が演じている。
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