芥川賞の候補になった九段理江(くだんりえ)の小説「Schoolgirl(スクールガール)」の解説。親から叩かれ罵倒された記憶を抱えて生きてきた母。倫理的に「正しい」生き方を大切にするYoutuberの娘。母は娘を愛しているが、娘は社会問題に関心の薄い母を軽蔑する。すれ違う二人を太宰治の「女生徒」がつなぐ。
九段理恵の『Schoolgirl』には表題作のほか、第126回文學界新人賞受賞作「悪い音楽」が収録されている。「悪い音楽」は初出で読んだが、高校で音楽教師をしている主人公の音楽祭での暴走ぶりが愉快だった。今回の芥川賞の受賞を期待していたのだが、選ばれたのは砂川文次『ブラックボックス』だった。同作の書評は以下で書いた。
今回は「Schoolgirl」について書きたい。極簡単に言えば、2人の少女が苦しみからどのように抜け出るのかを描いた小説である。ただしいくつもの要素が絡み合っていて、分かりやすく説明するのは容易ではない。そこで視覚的に整理したのが上の図1「Schoolgirl」の登場人物(詳細版)である。ただ図1は、小説で重要と思われる要素を一通り入れ込んだので、かなり複雑になっている。
理解のとっかかりとしては、2つの「母・娘」関係を軸に考えるのが良いと思う。1つは、主人公の「私」とその母。もう1つは、「私」と14歳の娘だ。「私」は、子供の頃に母から暴力を受けていた。大人になった今でも当時の記憶がフラッシュバックするし、死にたいと思うことがある。
こうした心の傷は現在の娘との関係にも影を落としている。「私」は、自分に足りないものを娘に与えたかったのか、英語を使う保育園に通わせる。そのため娘は、英語と日本語を使いこなすが、2つの言語の間で分裂する自我を抱えて戸惑ってもいる。この戸惑いは、娘が「私」に不満を持つ原因となっている。そして、「私」がかつて愛読したと太宰治の小説「女生徒」を、娘もまた読むことで、二人に対話が生まれる。
上記の2つの「母と娘」の関係、そして小説「女生徒」との関係を図にしたのが下の図2だ。
図2 「Schoolgirl」の登場人物相関図
「私」と娘は、「女生徒」を読む。しかし「私」が読んだ「女生徒」と娘が読んだ「女生徒」は同じ小説でも果たす役割が異なる。それを区別するため「女生徒」(a)と「女生徒」(b)とした。この役割の違いを理解することが、この小説の解釈する上で重要になる。
まずはあらすじを見ていこう。
あらすじ・登場人物
主人公の「私」は、専業主婦で、夫と14歳の娘とタワーマンションに住む。夫は仕事が忙しいためか不在がち。それをいいことに「私」は、以前通っていたジムトレーナーとの逢瀬を楽しんでいた。
娘はプリスクール(保育園)を経てインターナショナルスクールに通う14歳。母とは日本語で話すが、英語を使うことの方が多いバイリンガルだ。ヴィーガンで、社会問題へ強い関心を持ち、環境活動家のグレタ・トゥンベリをロールモデルにしている。そして「世界の悲惨な現状を知ってもらう」ためにYoutubeで動画を配信している。
社会問題への関心が薄い「私」は、モノをすぐに買い替えたりして、娘から「無自覚な消費者」と非難される。一方、「私」は娘のことを心配して、行動に口出しするのだが、娘はそうした干渉を疎ましく感じている。
「私」は母親から暴力を受けていた。その記憶がしばしばフラッシュバックし、自分が娘に暴力を振るうかもしれない懸念も抱いている。また死の想念にとりつかれてもいる。虐待された経験は、「私」と娘との関係にも影を落としている。
ある日、娘は「私」のクローゼットに保管された古い本の中から、太宰治の小説「女生徒」を発見する。娘は「女生徒」を読み、Youtubeのチャンネルで小説と母について語り始める……。
「女生徒」とイマジナリーフレンド
ここから「私」にとっての「女生徒」(a)について考える。「あらすじ」で書いたが、少女期の「私」は、母から叩かれ、言葉の暴力も受けていた。虐待された記憶は大人になってもフラッシュバックする。
四六時中体内にアルコールを入れていないと正気を保てなかったあの人は、脳の言語野に異常をきたしていたために、よく同じ構文を使いまわして子供を罵倒した。母は叩く人だった、という記憶は、まるで微塵も興味がないのに繰り返し刷り込まれた動画広告のように頭をかすめる。
「Schoolgirl」『文学界』2021年12月号
虐待のストレスから逃れるためと思われるが、「私」は空想上の女友達を話し相手にしていた。話していたのは以下のような内容だ。
お父さんがいないことで、すぐに泣きたくなってしまうという話。でも私には大事なお母さんがいて、お母さんにいろいろなことをしてあげたいと思っている話。それから顔の嫌なところ、誰にも知られたくない自分のずるさ、下着の刺繍のことまで、私は彼女に何から何まで教えた。
「Schoolgirl」
このような空想上の友達は、精神医学や発達心理学で「イマジナリーフレンド」や「イマジナリーコンパニオン」と呼ばれる。強いストレスにさらされた子どもが、心理的な危機を回避するために「イマジナリーフレンド」をつくることがあるといわれる。虐待されていた「私」の場合もこのケースに当てはまる。
上に引用した「お父さんがいない」「お母さんにいろいろなことをしてあげたい」「顔のいやなところ」「下着の刺繍」などはすべて、小説「女性徒」の内容と重なる。後で明らかになるが「私」は中学校の図書室で「女生徒」繰り返し借りていた。内容をほぼ暗記していたのだろう。空想上の友達の前で、「私」は「女生徒」の主人公になり切っていたわけだ。
母に虐待されていた私は、それでも母に愛されており、自分も母を愛していると信じたかった。だから、「女生徒」に描かれた互いに思いやる母と娘にあこがれて、想像の世界で「女生徒」の主人公を演じたと考えられる。
ここから分かるのは、「私」にとっての「女生徒」(a)は、自分が虐待されているという苦しい現実をなんとか乗り越えるために逃げ込む世界としてあるということだ。小説の中には、理想の母と娘がいる。「私」はその娘(女生徒)をロールモデルに見立てて自分を重ねようとしたのだ。大人になった「私」が、「女生徒」の主人公と同様の読書家になったり、小説の内容を思い出したりすることから分かるように、現在も「女生徒」は「私」の中で生き続けている。
ここまでの内容を整理したのが下の図1(冒頭の図と同じ)である。
図1 「Schoolgirl」の登場人物相関図(詳細版)
美しさは「無意味」で「無道徳」
次に「私」の娘にとっての「女生徒」(b)を考える。だが、その前に太宰治の「女生徒」の内容を簡単に押さえておきたい。
主人公の女生徒が、五月のある朝、起きてから夜に寝るまでの一日の出来事を語る。父親は死んでおり、女生徒は母親と二人で暮す。家や学校での生活を通して身の回りに目を向けながら、美しいもの、醜いもの、好きなもの、嫌いなものなどを、女生徒は思うままに語っていく。生き生きとした語り口から、彼女の価値観や道徳観が浮かび上がってくる。
印象に残るのは女性徒の「美しさ」への強いこだわりだ。「美しく生きたいと思います」ときっぱりと宣言する場面がある。それは、夕焼け空を見て、夕靄のピンクに体が包まれながら、「木の葉や草が透明に、美しく」見え、草に触れる直後にくる。
あるいは、自分の下着を縫い上げて次のように語る場面。
きのう縫い上げた新しい下着を着る。胸のところに、小さい白い薔薇の花を刺繍して置いた。上衣を着ちゃうと、この刺繍見えなくなる。誰にもわからない。得意である。
太宰治「女生徒」
女生徒にとって「美しさ」は、下着に刺繍した薔薇のような他人が気づかない小さなものにこそ宿る。そして、「美しく生きる」とは、夕焼けの光や木や草、下着の刺繍といったささやかなものに美しさを感じ、そうした自分に喜びを見出す態度である。
「美しさ」について、主人公が別の視点で説明する場面がある。主人公は家に来た客のために、「ハムや卵や、パセリや、キャベツ」などの有り合わせの食材を皿に美しく盛り合わせて、それを「ロココ料理」と名付ける。そして、「ロココ」の意味について語る。
ロココという言葉を、こないだ辞典でしらべてみたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されていたので、笑っちゃった。名答である。美しさに、内容なんてあってたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。きまっている。だから、私は、ロココが好きだ。
「女生徒」
つまり、彼女が考える「美しさ」とは「内容空疎」で、「無意味」「無道徳」なものである。下着に刺繍した薔薇の花、あるいは夕靄のピンクや草には意味もなく、道徳もない。そのようなものに、価値を見出す態度こそが「美しく生きる」ということである。
この「美しく生きたい」という言葉が、「Schoolgirl」の「私」と娘の間で、大きな意味を持ってくる。
日本語と英語に引き裂かれる
「あらすじ」で述べた通り、「私」の娘は「世界の悲惨な現状を知ってもらう」ためYoutubeで情報を発信している。フォロワーに向けてこんな風に語る。
今あなたが快適な部屋でジュースを飲みながらYoutubeを見ているこの瞬間にも、地球環境は破壊され、世界では飢餓によって一日に数万人もの人が亡くなっているんです。もしあなたが今、何不自由なく幸せに生きているという自覚があるとすれば、それははっきり言ってただ夢を見ているだけなんです。
「Schoolgirl」
そして、「人の意識が変わればきっと未来は変えられるはずなんです。革命を起こしましょう」と訴える。中学生の素朴な正義感と革命論を笑うのは簡単だ。しかし、彼女には切実な理由があって「正義」に執着している。きっかけとなっているのが、自分に与えられた2つの言語である。
娘にとって、日本語は「お母さんの言葉」であり、「shy」「弱々しい」「あいまい」という印象を抱いている。そして日本語で話す自分の声は「自信なさそうに聞こえる」。一方、英語については「toughではっきりしている」と語る。日本語についての否定的な見方は、そのまま母(「私」)への批判につながる。
私のお母さんはね、すごくshyな人なんです。仕事もしてないし、人に会うのも好きじゃないし、家にひきこもって本ばかり読んでいるような人なんだ。
「Schoolgirl」
娘は、日本語を話す自分を、そして母(「私」)を嫌悪している。そして「自信なさそう」な自己像を否認するために、英語で「tough」な自分を表現しなければならない。娘がグレタ・トゥンベリをロールモデルにして、「地球環境」や「飢餓」についてYoutubeのフォロワーに向けて語るのは、そうした「tough」な自己像を手に入れるためだ。
ところで、娘とフォロワーの関係は、「私」とイマジナリーフレンドの関係を想起させる。もう一度、図1を見てみよう。
図1 「Schoolgirl」の登場人物(詳細版)
繰り返しになるが、「私」は母から暴力を受けていたが、そうした自分を否認するために「女生徒」の主人公になりきって、イマジナリーフレンドに語りかけた。一方、娘は「自信なさそう」な自分を否認するためにフォロワーに語りかける。ここで、娘にとってネットでつながる顔も知らないフォロワーが、イマジナリーフレンドの役割を果たしていることが分かる。
「私」(両親)は、娘に良かれと思って早期英語教育の環境を用意したに違いない。しかし、娘にとっては自分の意思に関係なく与えられたものだった。それは、コミュニケーションの可能性を広げる反面、自我の分裂をもたらす負の環境でもある。娘が母に辛く当たり、英語でまくし立てる場面に、そうした不満が表れている。
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