桜庭一樹と鴻巣友季子の間で小説「少女を埋める」の批評を巡って論争が起きている。ちょうど作品を読み終わったところでこの論争を知った。小説家と批評も手掛ける翻訳家。二人のプロが名誉とプライドを掛けた論戦を繰り広げている。私が知らないだけかもしれないが、このような論争は最近少ないような気がする。
桜庭、鴻巣ともにSNSで自らの主張を発信したり、自分の有利になる他の投稿をリツイートしたりしている。こうした行動もSNS時代の論争として興味深い。当事者たちは胃が痛むような状況かもしれないが、様々な意見が飛び交うのを読んでいると、いろいろ考えさせられる。この論争を有益なものにするための第一歩として、両者の主張を記録するとともに私なりの検証を書き、興味を持っている人たちと共有したい。念の為記すが、私は、両者とは何の面識もないし、特に愛読者でもない。
※桜庭一樹「少女を埋める」の作品の詳細については本ブログの以下の記事(【作品評】桜庭一樹「少女を埋める」)をご覧ください。
私の見たところ論争の主な論点は2つある。1つは批評における小説のあらすじと解釈の在り方、もう一つが私小説のモデルの扱いである。
主な論点
・小説のあらすじと解釈の在り方
・私小説のモデルの扱い
これらに触れる前に、まず論争の流れを整理しておきたい。
論争の流れ
論争の主な流れをざっくりまとめると次のようになる。
桜庭 父の死、母の娘への暴力などについて書いた小説「少女を埋める」を文芸誌に掲載 ↓ 鴻巣 新聞の文芸時評で上記小説を取り上げ、介護の際、母が父を「虐待」していたと記述 ↓ 桜庭 鴻巣の誤りを指摘。新聞社に訂正を要求 ↓ 鴻巣 Evernoteに反論文を掲載。あらすじと解釈について持論を展開 ↓ 桜庭 鴻巣の上記反論文を「詭弁」と批判 ↓ 鴻巣 文芸時評(ウェブ)の文章を変更し、新聞側が経緯について注を追記(9月1日確認) ↓ 桜庭 上記注の文言について訂正を要求 ↓ 桜庭・鴻巣 朝日新聞朝刊に論争について両者の見解を掲載(9月7日) ↓ 桜庭 『文學界』(2021年11月号)に論争の経緯などをまとめた「キメラ—-『少女を埋める』のそれから」を掲載 ↓ 現在に至る
※9月1日の時点で、文芸時評の争点になっていた個所が「夫を『虐(いじ)め』ることもあったのではないか。わたしはそのように読んだ」と、解釈であることを示すかたちで変更され、その経緯について注が付けられたことを確認。上の論争の流れに追加した。
※上の「論争の流れ」に9月7日以降の内容を追加した。
※桜庭一樹が論争の後日談を記した「キメラ――『少女を埋める』のそれから」の作品の詳細については本ブログの以下の記事をご覧ください。
※9月1日以降の経過については、「5.その後の経過」参照
鴻巣の解釈 ― 母は父を虐待した
上記まとめを頭に入れて、以下に書く詳細な経緯を読んでほしい。
桜庭一樹が文學界2021年9月号に小説「少女を埋める」を掲載。この小説では、ざっくりいうと主人公の小説家(冬子)が父の死が近いという知らせを受け、7年ぶりに実家に戻り、父を看取り、葬式を上げるまでが描かれる。さらに母と父が不仲だった時期があり、冬子が母から暴力を振るわれたことがあるといった過去も明かされる。この小説について鴻巣友季子が文芸時評「ケア労働と個人 揺れや逸脱、緩やかさが包む」(朝日新聞2021年8月25日)で言及した。
※鴻巣の文芸時評は、同社ウェブサイトで公開されている。ユーザー登録すれば全文を読める。
文學界2021年9月号(Amazon)
鴻巣が「少女を埋める」について言及した部分を以下に引用する。
ケアとジェンダーの観点からは、桜庭一樹「少女を埋める」(文学界9月号)にも注目したい。実父の死を記録する自伝的随想のような、不思議な中編である。
語り手の直木賞作家「冬子」も故郷から逃げてきた、ある種のケア放棄者だ。地元を敬遠するようになった一因は神社宮司との結婚話にある。「神社の嫁になり、嫁の務めを果たしながら空き時間で小説を書け」という勧めに抗し、冬子は小説家のキャリアを選ぶが、家父長制社会で夫の看護を独り背負った母は「怒りの発作」を抱え、夫を虐待した。弱弱介護の密室での出来事だ。
看取(みと)りのために帰郷した冬子は父に詫(わ)びつつ、やはり「個人」の幸福を優先する。題名の「少女」とは、作中では異能者、異分子の同義語であり、冬子は生涯少女であり続けるだろう。郷の共同体の掟(おきて)は「出て行け。もしくは、従え」だからだ。
鴻巣「ケア労働と個人 揺れや逸脱、緩やかさが包む」 (朝日新聞社ウェブサイトより)
桜庭の主張 ― 虐待したとは書いていない。解釈とあらすじを分けるべき
これを受けて、桜庭は朝日新聞に抗議する。母による父に対する「虐待」があり、それが「弱弱介護の密室での出来事」(以下、虐待・密室解釈)と書かれたことを桜庭は問題視する。さらに報道被害を危惧して、「訂正記事掲載」「ネット記事の訂正」を要求し、要求が果たされない場合、「朝日新聞社での仕事をすべて降ります」と朝日新聞に通告した。
上の投稿から分かる通り、桜庭が問題としているのは、鴻巣が 虐待・密室解釈を小説に書かれているかのように「断定的」に書いたことである。そして、その解釈が「あらすじ」に含まれるように見える点である。
鴻巣の反論 ― あらすじと解釈は分けられない
桜庭の抗議に対して、鴻巣はEvernote上に反論文「8月の朝日新聞文芸時評について。」を掲載し、虐待・密室解釈の根拠を示し、あらすじと解釈についての持論を展開した。
虐待・密室解釈の根拠について、鴻巣は小説から以下の2個所を引用している。
ここで、帰省して初めて、母と二人で話した。
桜庭「少女を埋める」 文學界 p28
父が体調を崩してからの二十年、幸せだった、と母は噛みしめるようにしみじみと言った。驚いて声を飲みこんだ。
記憶の中の母は、わたしから見ると、家庭という密室で怒りの発作を抱えており、嵐になるたび、父はこらえていた。
不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞くと、母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた。
いよいよ蓋を閉めるというときになって、母がお棺に顔を寄せ、「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」と涙声で語りかけ始めた。「お父さん、ほんとにほんとにごめんなさい……」と繰り返す声を、ぼんやり寄りのポーカーフェイスで黙って聞いていた。
桜庭「少女を埋める」 文學界 p43
内心、(覚えてたのか……)と思った。
鴻巣は、これらを引用した上で次のように書く。
このいじめが二十年間の看護・介護中に起きたとは特に書かれていませんが、いつ起きたことなのかの明示もありません。
鴻巣「8月の朝日新聞文芸時評について。」
父が病気になる前にも、看護・介護中にもあったのだろう、そういう物語として、わたしは読みました。ここが、作者の意図と違うと指摘されているところです。
さらに、あらすじと解釈について次のように書いている。
小説は多様な「読み」にひらかれていると思います。また、作品紹介のあらすじと解釈を分離するのはむずかしいことです。
鴻巣「8月の朝日新聞文芸時評について。」
まず鴻巣は、時評で書いた虐待・密室解釈が、書かれていない情報を「読み」で補ったもの、つまり解釈であることを認めている。さらに桜庭が、評者の解釈があらすじとして書かれていると批判したことに対して、鴻巣は、あらすじと解釈は分離できないと回答している。
ここまでが、私がたどり得た論争の経緯である。
その後の経過
以下は、9月1日に文芸時評の問題個所が変更されたことを受けて、9月3日に追記した。
論争の流れのところで追記したように、9月1日の時点で文芸時評(ウェブ)の文章が以下の通り変更され、記事の最後に注が付された。
【鴻巣の文芸時評 変更後】
弱弱介護のなかで夫を「虐(いじ)め」ることもあったのではないか。わたしはそのように読んだ。
鴻巣「ケア労働と個人 揺れや逸脱、緩やかさが包む」 (朝日新聞社ウェブサイトより ※アンダーラインは筆者)
元の文は「夫を虐待した。弱弱介護の密室での出来事だ」となっていた。 上記の黄色アンダーラインを引いたところを読めば分かるように、「虐待」を「虐(いじ)め」に置き換えている。「虐待」よりも弱いニュアンスで、小説内でも使われている「虐め」にしたことで表現を穏当な方向に変えた印象だ。
私は「虐待」は「虐め」の一種だと考える。つまり広い意味では、「虐待」も「虐め」であり、「虐め」に肉体的な暴力の要素を加えた、より酷い行為が「虐待」だろう。そう考えれば、「虐待」を「虐め」に言い換えても、解釈の趣旨は大筋で変わっていないと思う。
変更後の文では文末を「ないか」「読んだ」として評者の解釈であることを明示している。すでに鴻巣はEvernoteに掲載した反論文で、この部分が自身の読み(解釈)であることを認めていたので、桜庭の指摘を受けて、表現として分かりやすいかたちに反映させたわけだ。これらの変更からは、桜庭にかなり譲歩したという印象を受ける。これによって桜庭と鴻巣の間の「あらすじと解釈」論争については、一区切りについた格好だ。
しかし、桜庭は鉾をおさめるつおりはないようだ。今度は、編集部による注の文章を問題視している。まず記事末に追加された、編集部による注を見てみよう。
【朝日新聞編集部による注】
本文中の「夫を虐待した。弱弱介護の密室での出来事だ」という箇所について、「少女を埋める」著者の桜庭一樹さんから「評者の解釈であることを明示してほしい」と要望があり、筆者の鴻巣友季子さんの意向を受けて「弱弱介護のなかで夫を『虐(いじ)め』ることもあったのではないか。わたしはそのように読んだ」と表現を改めました。
鴻巣「ケア労働と個人 揺れや逸脱、緩やかさが包む」 (朝日新聞社ウェブサイトより)
この注の中で、修正や訂正といった書き方をしていないことに注意したい。代わりに「表現を改め」と書いている。この点に、事実レベルの問題としてではなく、あくまでも表現レベルの問題として考え、対応するという編集部としての意思が表れていると思われる。
以下は要望を表明した桜庭のツイートだ。自分のコメントとして書かれた部分を赤のアンダーラインに「直す」ことを求めている。
【注に対する桜庭の訂正要求】
朝日新聞のネット記事、訂正版がアップされたようです。事前連絡がなく、いつからなのかわかりません。 最後の「注」の文面も、見ていなかったので、
桜庭のツイートより(※連続する2つのツイートを筆者がつなげた アンダーラインは筆者 )
「評者の解釈であることを明示してほしい」
↓
「小説の中に弱弱介護での虐待のシーンはない。評者独自の解釈であると明示してほしい」
(続)
と、わたしの言葉の部分を直すようにお願いしました。 わたしの言葉なので。 (こういう進め方だとなかなか解決し辛く、双方によくないと思います)
桜庭が朝日新聞に対してこれまでどのような言葉で自分の主張を伝えていたかは知り得ない。したがってこの主張が妥当なのか判断できない。この要望によって、桜庭の戦う相手が、朝日新聞に変化したことになる。果たして、これを朝日新聞が受け入れるのか。受け入れたとしたら、注ではあるが、訂正を訂正で上塗りするかたちになり、正確な情報発信を担うメディアとしてはかなり恥ずかしい事態である。朝日新聞の対応が気になるところだ。
9月7日になって朝日新聞朝刊に、今回の論争について桜庭と鴻巣のそれぞれが書いた見解のほか、文化くらし報道部次長 柏崎歓による経緯説明「担当者から」を並べて掲載された。ウェブ版記事も公開されている
さらに桜庭は、『文學界』(2021年11月号)に「少女を埋める」の掲載の直前から桜庭・鴻巣論争の過程で、当事者として何を考え、行動してきたかを詳細に記した「キメラ—-『少女を埋める』のそれから」を掲載した。(※11月2日追記)
次ページで、あらすじと解釈の在り方や小説のモデルの扱いについて考察する。
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