桜庭一樹と鴻巣友季子の論争はこのまま終わってしまうのか。そう思っていたところ『文學界』(2021年11月号)に桜庭一樹「キメラ—-『少女を埋める』のそれから」(以下、「キメラ」)が掲載された。この作品で桜庭は、前作「少女を埋める」の掲載の直前から論争を経る過程で、当事者として何を考え、行動してきたかを詳細に記している。
論争に新たな燃料を投下
重要なのは、桜庭が鴻巣を痛烈に批判し、今回の論争についてを考える上でいくつかの興味深い議論を展開している点だ。これまでの論争の主な争点は「あらすじか、解釈か」にとどまり、正直に言ってスケールが小さいという感想は否めなかった。それについては桜庭も認識していたのだろう。だからこそ、人々の意識が離れかけたこのタイミングで、新たに燃料を投下したわけだ。小説家としてあるべき姿勢である。
私が読んだところでは「キメラ」で提示された批判のポイントは2つある。1つは、桜庭の問いに対する鴻巣の回答が正対しておらず、会話が成り立たない点だ。桜庭は、鴻巣との一連のやりとりについて「ディスコミュニケーション」を感じており、そうした鴻巣について「文学的な言葉を使うBOT」と形容している。
もう1つは、鴻巣が自ら十代に介護を体験したことから、桜庭に共感を表面したことに対する違和感に関するもの。桜庭は、鴻巣の論理は、白人が「レイシスト」ではないと潔白を主張するときの論理と同じではないかと指摘する。これら批判のポイントは後に詳しく解説する。
論争が盛り上がることが文学を活性化すると考える立場からは、このような桜庭の戦闘的な姿勢は歓迎であり、「グッジョブ!」と評価したい。対する鴻巣には物書きのプライドを掛けて、ぜひとも反論してもらいたい。
さて「キメラ」であるが、鴻巣批判が展開される一方で、桜庭が語る自身の言動には疑問を感じる点もいくつかあった。ここではひとまず、論争を理解する上で重要な鴻巣への批判について整理したい。桜庭への疑問については別の機会に書くつもりだ。
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ちなみに、これまでの論争の経緯と論点については、以下に整理した。こちらを先に読んだ方が以下の文章を理解しやすいと思う。
また「少女を埋める」についての作品評は、以下に書いた。
不可解な「C氏」表記
疑問については別の機会に書いておきながら、いきなり桜庭への疑問に触れなくてはならない。桜庭が「キメラ」で、論敵である鴻巣のことを 「翻訳家のC氏で、五十代後半の女性」と書いていることだ。ことの発端となった文芸時評の書き手が鴻巣であることは周知の事実であるのに、なぜ名前を伏せるだろうか。
谷沢永一は、論争の作法について次のように書いた。
「批判する相手を丙氏だのT氏だのと書く方式は、意識的あるいは無意識的に、偽りの礼儀に身を隠し、実は相手側からの反論を回避しようと企む、卑怯な逃げ腰から生まれた手前勝手ではあるまいか」
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谷沢が書いたように、桜庭は、鴻巣からの反論を避けようとしているのだろうか。あるいは、鴻巣を相手に論争していることを世の中にあまり知られたくないのだろうか。そうではないだろう。しかし、批判している相手の名前を仮名にすることは、相手に対する敬意を欠いている印象を受けるし、論争の経緯を知らない読者に対して不親切だと感じる。やはり桜庭は堂々と鴻巣の実名を記すべきだった。その方が世の中の関心は高まり、議論は深まるだろう。
以下の私の文章では、「キメラ」の語り手を桜庭、「C氏」を鴻巣として記述している。
鴻巣への批判1 深刻なディスコミュニケーション
この論争の詳細については、先に上げたまとめ記事にゆずるが、ごく簡単に説明すれば次の通りである。
鴻巣が朝日新聞の文芸時評に「少女を埋める」取り上げて、母による父に対する「虐待」があり、それが「弱弱介護の密室での出来事」と書いた。これに対してを桜庭は、そのようなことは小説に書かかれておらず、鴻巣が自身の解釈を小説のあらすじとして書いていると主張した。そして桜庭は、朝日新聞に文芸時評の訂正を求めた。
結果として、鴻巣は桜庭の主張を受け入れるかたちで朝日新聞のウェブサイトに掲載した文芸時評を修正し、編集部が経緯を説明する注を追加した。さらに、朝日新聞は、9月7日の朝刊に今回の論争について桜庭と鴻巣のそれぞれ見解が並べて掲載した。桜庭の要望は概ね受け入れられた格好だ。
「キメラ」では、こうした朝日新聞との交渉過程やTwitterを使った鴻巣とのやり取り、知人から届く小説家の身を案じるメッセージなどが詳しく書かれている。
解釈(主観)とあらすじ(客観)を分けて書くべきという桜庭の主張に対して、鴻巣は、「主観と客観には明確な境がない。両者を分ける一線もまた主観である」と回答する。桜庭は、こうした鴻巣の回答を、小説の解釈についての一般論と考える。そして、自身の作品に対する批評の書き方についての問いと鴻巣の答えが「噛み合っていない」と感じる。
桜庭は、自身の質問に対して、トンチンカンな回答をよこす批評家というイメージを強調しているわけだが、このあたりは、後に鴻巣が訂正に応じたことから推測できるように、分が悪いと判断し、論争の戦術として一般論に逃げようとしたとも考えられる。
さらに、鴻巣への批判は続く。鴻巣から桜庭へ「私的な話をして申しわけないが、自分も母とは不仲で、離れては歩み寄りを繰り返し、死別した。冬子の迷いや決意や、いまのあなたの気持ちを思うと涙が出てくる」というリプライが送られる。鴻巣のリプライに出てくる「冬子」は、「少女を埋める」の主人公の名前である。共感を示す文章のように思えるのだが、これを読んだ桜庭は、二人の間に「深刻なディスコミュニケーション」があると感じ、次のように語る。
何か、生きた人間ではなく、まるで文学的な言葉を使うBOTとやりとりしたかのような不思議な疲労を感じた。この疲れ方には覚えがあり、ふと、故郷でのタクシー運転手とのショートメールのやりとりとどこか似ているような気がする。
「キメラ—-『少女を埋める』のそれから」
かなり手厳しい批判だ。念の為に書くと、BOTはrobot(ロボット)の略称で、インターネットなどで作業を自動化するプログラムのこと。Twitterの機能を利用して、自動で投稿するプログラムなどが知られている。桜庭は、鴻巣をこのようなBOTになぞらえているわけだ。相手の気持ちを考えずにメッセージを送る機械のようなイメージである。
また、「タクシー運転手とのショートメール」も「少女を埋める」に出てくる。冬子が鳥取で一度利用したタクシーの運転手に、再度予約について問い合わせるショートメールを送った。その後、運転手からメールや着信で「時間が空いてからでいいので連絡お願いします!」といった連絡が立て続けに来るようになった。不審に感じた冬子が反応しないでいると運転手は、「なんか俺は悪いことしましたか?」「悪いことしたなら謝ります。すいませんでした」というメールを送っきた。
冬子は客として、運転手に予約を頼んだだけなのに、運転手は勘違いして必要距離を詰めようと連絡してくる。冬子は、運転手のように「少しおかしいかもという人から標的に選ばれやすい面があった」と打ち明ける。桜庭は、鴻巣と運転手に共通する性質を見て、通常のコミュニケーションができない「少しおかしい」人だと指摘していることになる。
桜庭はここで、鴻巣について普通のコミュニケーションができない人、相手の言葉や気持ちを解さない人と批判しているに等しい。これは翻訳者や文芸時評の書き手としての資質を疑われかねない批判でもある。桜庭は、かなり踏み込んで論敵へ攻撃を加えていることが分かる。
次ページでは、鴻巣が送ってきた「レイシスト」まがいの言葉についての批判を見ていく。
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