白石一文「我が産声を聞きに」書評 新型コロナと中年夫婦の危機

白石一文「我が産声を聞きに」

 「小説現代」(講談社)2021年4月号に掲載された白石一文「我が産声を聞きに」の書評(書籍は2021年7月7日に発売)。子育てが一段落した中年夫婦。肺がんが見つかった夫は、恋人を作って家を出てしまう。残された妻は、この危機をどう乗り越えようとするのか。

あらすじ

 人は、50歳ごろを機に人生の大きな転機を迎えるようだ。20代に結婚していれば、そろそろ子育ては一段落する。会社人生も終わりが見えてきて、独立して好きなことで生計を立てる算段を始めるのもこの時期だ。持病があれば、人生の残り時間を真剣に考えるタイミングでもある。親の介護についても真剣に考えなくてはならない。私も同世代なのでこうした心境はよく分かる。

 この作品では、主人公である徳山名香子と良治の転機が描かれる。名香子は47歳で英語学校の講師として働く。夫の良治は54歳で大手電機メーカーの研究職。一人娘は、早稲田大学で建築を学んでいる。共働きで仕事は安定しており、比較的裕福な中流家庭である。夫婦は、互いの時間と距離を大切にすることで、20年以上大きな危機もなく連れ添ってきた。しかし、良治に肺がんが見つかることで、二人の関係は大きくゆらぐ。

新型コロナウイルスが人生の選択を迫る

 この作品は、2020年9月以降の日本を舞台にしており、新型コロナウイルスの感染拡大は、二人の行動、人生の選択に濃い影を落としている。

 肺を病んでいる良治は、感染すれば重症化して死ぬことも十分にありえる。名香子も10代に自然気胸を患った。40代で再発したこともあり、重症化のリスクを抱えている。しかし、目の前にある死の恐怖に対して二人は異なる態度を示す。

 名香子は、コロナへの感染を恐れて、いち早く英語学校での授業を中止し、オンラインに切り替える。外出も避けている。一方、良治は、コロナと肺がんをきっかけに、新たな一歩を踏み出す。良治は、数年前に偶然再会し、密かに逢瀬を重ねていた元・婚約と生活することを選ぶ。がんセンターで精密検査を終えた帰り、良治は家を出ることを名香子に告げ、会社も辞めてしまう。

こんなコロナの状況の中で一年余りが過ぎて、自分がこうして肺がんに罹ってみて、僕はいまこそ決心をつけるべき時だと感じたんだ。

白石一文「我が産声を聞きに」

 死を前にした人は、これほど果敢に行動できるものなのか。良治は、理性的で慎重に行動するタイプだが、この機を逃さんとして決断し、思いのままに動き出す。妻や娘との生活に未練がないかのようだ。

 感染症への態度が、名香子と良治の行動をくっきりと分ける。死を恐れ、今の生活を守ろうとする名香子は、ウイルスにおびえて、外出や人と接触する機会を極力減らし「可能な限り自宅に引き籠ってきた」。そうした名香子を良治や娘も気遣って不安を与えないようにしていた。一方、死を覚悟して決断した良治は、新しいパートナーを得て、髪を金色に染めるなど新しい環境を得て生き生きしている。

 私たちは、交通事故のようにウイルスに感染する。中でも基礎疾患を持つ人は、通常よりも重症になる可能性が高く、場合によっては死に至る。「自分は近いうちに死ぬかもしれない」――。そうした思いにつかまれたとき、「我慢しないで、好き勝手に生きたい」と考えたとしても不思議ではない。中年夫婦の危機は、現在の感染症の蔓延が人々の意識に作用し、人生の決断を迫っている状況を浮き彫りにする。

恐れないことで自由になる

(※作品終盤の内容に言及しています。未読の方はご注意ください)

 現在、ウイルスへの感染を避けるため、私たちは行動の自由を制限された中で生活している。そのような生活に果たして意味があるのか。二人の感染症への異なる反応から、そうした問いを受け取る。それは、このまま感染者が収まらない状況が長く続けば、多くの人が抱き、口にするはずの問いでもある。

 これと対照的な考えがあることは、名香子の口を通して語られる。

俺たちはコロナなんて怖くも何ともない。いつ感染したって構わないし、万が一それでいのちを失ったって別に悲しくはない。だから俺たちは俺たちの自己責任でマスクなんて着けない。大体、こんなウイルスごときにビクビクして暮らすなんて真っ平御免だ。もしもお前たちが、そんなに感染したくないのなら、お前たちの方が俺たちに近づかなければいい。要はそれだけのことだ

白石一文「我が産声を聞きに」

 このように考える人が、「それなりの人数でアメリカやヨーロッパには存在する」。日本にも同じ考えの人が相当数いると判断する名香子は、「今後の感染者増を見据えれば、もっともっとコロナへの警戒を厳重にすべきだ」と語る。一方で、こうした怯えが、自分を縛ってきたことに名香子は気付いている。

「私は、恐れないから大丈夫」

 この作品の鍵となる言葉だ。名香子は、若い頃、証券会社の社員と婚約していた。しかし、婚約者が会社の同僚を好きになったため別れた経緯がある。詳しい説明は省くが、そのときの女が婚約者に告げたのが、この言葉だった。その経緯を伝え聞いた名香子は、この台詞を長く記憶し反芻してきた。「恐れない」という態度が、名香子に欠けているものだからだ。

 作品の終盤、名香子が「初みくじ凶なり戦い甲斐ある年だ」という俳句に促されて、自分の中にある「恐れ」に気付き、行動を開始するところに希望がある。

 人は恐れることで自由を手放し、恐れないことで自由を手に入れる。この作品は、コロナ禍における夫婦の危機を通して、自由とは、生きる意味とはといった本質的な問いを投げかけている。


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