【作品解説】桜庭一樹「キメラ――『少女を埋める』のそれから」 鴻巣批判のポイントまとめ

桜庭一樹「キメラ――少女を埋めるのそれから」小説
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鴻巣への批判2 「レイシストではない」の論理

さらに痛烈な鴻巣批判が、先に引用した鴻巣の「いまのあなたの気持ちを思うと涙が出てくる」というリプに関連して語られる。桜庭は、この歩み寄りを示すようなリプに引っかかり考え込む。そして拒絶する。

“自分も同じ思いをしたから理解できる”という論旨は、いわゆる “自分は白人だが黒人の友達がいるからレイシストではない”の理論であり、やってはいけないことだと学んだ記憶がある……。

「キメラ—-『少女を埋める』のそれから」

これはかなり際どいことを言っている。この文脈で、白人は彼の自己認識とは関係なく、現実的には何らかのかたちで黒人差別に加担している。しかし、特定の黒人の友達がいるという理由で、自分(白人)は差別に加担していない、「レイシストではない」と主張しているのだ。

こうした言い方は、レイシスト(白人)が自己に向けられる批判を交わすために語る論理、つまりレイシストの論理である。ということは、桜庭は、「あなたの気持ちを思うと涙が出てくる」という鴻巣の言葉に、レイシストの理論を見ていることになる。桜庭は、さらりと書いているがすごい批判だ。

鴻巣は、桜庭の「少女を埋める」を「ケアとジェンダーの観点」から取り上げた。ケアとは、狭義には看護や介護を意味する。しかし最近は、「弱い存在であること、誰かに依存しなくては生きていけないということ、支援を必要とするということは人間の出発点であり、すべての人に共通する基本的な性質である」(村上康彦『ケアとは何か』中公新書)として、ケアを人間の本質に関わる行為として捉える傾向があるようだ。

言うまでもなく、このようなケアとレイシズムはかけ離れている。桜庭は「C氏が、ケアをテーマとしながら実際には異なる振る舞いをしていると見えた」と評している。鴻巣は、ケアのことを語っているが、実際はケアを実践できていないばかりか、レイシストのように振る舞っている、そう桜庭は言いたいらしい。

文芸時評の書き手と直木賞作家の権力がぶつかる

ほかにも、桜庭は、鴻巣の文芸時評の書き手としての意識を理解する上で興味深いリプを書き留めている。

文芸時評の四分の一を『少女を埋める』に当てた。最後の『人は誰かを思いながらも、去就に迷い、留保し、離れては歩み寄る』の部分は同作を思いながら書いたものだ

「キメラ—-『少女を埋める』のそれから」

このリプで、鴻巣は貴重な文字数の中から四分の一を費やしたのだから、あれこれ言いがかりを付けるのは止めてもらいたい、と言外に要求しているようにも読める。大新聞に掲載される文芸時評の書き手が、紹介する作品と割当ての文字数を差配して、小説家に影響力を行使する。このリプには、そうした鴻巣の権力的な振る舞いが垣間見えるのではないか。

権力という意味では、桜庭も交渉過程で直木賞作家としての立場をフルに行使していることは指摘しておくべきだろう。桜庭は、朝日新聞社との複数の仕事を抱えていたが、文芸時評の訂正要求を受け入れられなければ、これらの仕事を降りるとそれぞれの担当者に告げた。直木賞作家が、会社員に対して圧力を掛けていることになる。とばっちりを受けた格好の担当者は相当に困惑したはずだ。

鴻巣の介護経験によるトラウマが原因か

このように批判を展開してきた桜庭が、作品後半で調子を一転させ、鴻巣の内面に視線を向け、寄り添うような態度を見せる。桜庭は、まず文芸時評の前半に、鴻巣が自らの介護を経験について記していたことに着目する。

10代後半から介護を経験した今の私には、若者が持ち場を放棄して遠くへ行きたくなるのも、その後に抱えた心の重りもわかる。

(文芸時評)ケア労働と個人 揺れや逸脱、緩やかさが包む

私はこの部分を素通りしていたため、桜庭の指摘にはっとさせられた。そして、鴻巣について「じつはここにも埋められた少女が一人おり」と桜庭は語る。埋められた少女とは、前作「少女を埋める」で共同体に存在を否定されそうになった冬子のことであり、周囲から抑圧されている、あらゆる少女たちを指している。桜庭が「自伝的な小説」というように冬子のモデルは、桜庭自身である。従って、桜庭は、自分の少女時代と鴻巣のそれとを重ねている。鴻巣からの歩み寄りを、桜庭が拒絶したことは既に述べた。ここでは、逆に桜庭が鴻巣の中に自分との共通点を見出して歩み寄っている。

鴻巣は文芸時評で、「少女を埋める」と『かか』(宇佐見りん・著)の語り手をケア放棄者と解釈していた。桜庭は、その解釈に「乱暴のように感じられる」と疑問を呈し、「すべてはわたしの想像だ」とことわりながらも、この解釈が生まれた背景に、鴻巣がヤングケアラーだったときのトラウマがあると分析する。

執筆者の抱えるトラウマが、ある思いこみに繋がり、無意識の領域に認知の歪みを作ったのではないか、とも推測する。

「キメラ—-『少女を埋める』のそれから」

この一文を読んだ時、なるほど流石に小説家の読みは鋭いと感じる一方で、奇妙気分にとらわれた。共にトラウマを抱えた小説家と文芸時評の書き手が、鋭く反発しながらも最後に小説家が相手の内面に触れたことで敵意が薄れ、手を差し伸べる。私たちが見せられているのはそんな光景ではないのか。

一方で桜庭は、この論争の継続を希望してもいるようだ。鴻巣に対して次のように呼びかける。

原稿を書き進めるごとに、C氏から見た風景を読みたいと思い始める。
SNSに書かれた、あの言葉たちではなく、一人の人間、一人の女性としての心を知りたいと願う。ほんとうのC氏を読解したいと。

「キメラ—-『少女を埋める』のそれから」

さらに、作品の最後、「キメラ」としての鴻巣をも自分の中に取り込んで書いていくことを宣言し、小説家としての強かさを見せる。

ここに解説した桜庭による批判は、論争の一方の立場から主張されたものである。もう一方の鴻巣からすればまた違った見方ができることは言うまでもない。この件に関して、鴻巣の対応が待たれる。

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