【解説】桐野夏生『燕は戻ってこない』 代理出産が照らし出す格差社会のリアル

桐野夏生『燕は戻ってこない』カバー小説
スポンサーリンク
桐野夏生の小説『燕は戻ってこない』(集英社)の解説。妊娠・出産とりわけ、代理母をレンズにして、格差社会が抱えるひずみを描き出す。金を払って代理母を利用するものと代理母として子宮を提供するもの。持てる者と待たざる者との違いがくっきりと浮かび上がる。果たして持たざる者は、持てる者に復讐できるのか。

桐野夏生の小説『燕は戻ってこない』は、代理出産(代理母)という深刻なテーマを扱いながらも格差社会の勝者(富裕層)と敗者(貧困層)の対立という明確な構図を設定することで、問題を分かりやすく提示する。リアルな登場人物を配した物語は小気味よく展開し、読者を飽きさせない。問題を提起して読者に考えさせる部分とエンターテインメント部分のバランスが絶妙。熟練の技が冴えている。

この小説で敗者は、社会の底で貧しさにすり減りならがなんとか抜け出そうとしてあがいている。一方、勝者は、豊かな生活を手にしているが、唯一足りないものがある。子供だ。勝者は自分の遺伝子を持った子供を切望している。ここに取り引きが成立する。女の敗者は、子宮を差し出して対価を得る。勝者は、金と引き換えに子宮を借りて、子供を手に入れる。

まずあらすじを見ておこう。

『燕は戻ってこない』/Amazon

あらすじと主な登場人物

(※ネタバレ注意。詳しい内容に触れています)

主人公のリキ(大石理紀)は、北海道・北見出身の29歳で独身。東京の総合病院で派遣職員として事務の仕事をしている。給料は、14万円と安く、食費も切り詰める日々で貧困にあえいでいた。ある日、同僚のテルからエッグドナー、つまり卵子提供のアルバイトを持ちかけられる。

リキは、エッグドナーを仲介する生殖医療専門クリニックで面接を受けた。その際、代表の青沼薫からサロゲートマザー(代理母)をやらないかと提案され、ひとまず相手夫婦と面会することを決める。

リキが紹介されたのは、草桶(くさおけ)夫妻。夫の草桶基(もとい)は、 元バレエダンサーで43歳。現在は都内でバレエスタジオを母親と共同運営している。妻の悠子は44歳で、何回か稽留流産の経験があった。体外受精を十回以上やっても妊娠しなかった。卵子の老化に加えて、子宮の状態も良くないと医者に言われていた。この時点で不妊治療に500万円以上を費やしていた。

基の両親もバレエダンサーだった。父はすでに他界したが、母・千味子は現役の指導者である。千味子の実家は資産家で、かなりの額の遺産を相続した。一等地にスタジオを持っているのも、基がバレエの英才教育を受けられたのも、高額の不妊治療費を出せたのも母に資産があったからだ。そして、代理母に必要な費用も母が負担する。

リキが代理母に選ばれたのは、容姿が悠子に似ていたから。夫婦と面会した際、悠子が自分の叔母に似ていたため、リキは親近感を抱く。一方、「金のためだけに、好きでもない男の子供を産んでいいのか」「出産したら、その子が欲しくならないか」という疑問が消えない。それでも最後は、「金が欲しい」という気持ちに抗えず、ビジネスと割り切って覚悟を決める。そして報酬として1000万円を要求する。基もこれを了承した。

基は、リキが代理母になることが決まって以降、契約内容を理由に彼女の行動に口出しするようになる。帰省したリキに、基からメールが届く。そこには、無断で出かけるな、酒やタバコを慎め、清潔で健康な体を保て、といった指示が書かれていた。すでに2回の人工授精を終えて、心身ともに疲弊していた彼女は、基の一方的な思いやりの欠けた態度に反感を抱く。

リキは、気持ちの収まりがつかず、飲み会で再会したかつての職場の上司で不倫相手だった日高とホテルに行き、さらに東京に帰ってからセラピストのダイキとも関係を持つ。契約違反は承知だが、排卵日まで日数があるので妊娠には至らないという判断があった。

後日、生理が遅れていたので検査すると妊娠が発覚。しかも双子だった。基の子である可能性は高いが、精子の生存期間がリキの考えていたよりも長いことに後で気づき、日高かダイキの子を妊娠しているかもしれないと青ざめる。悩んだ末、リキは、妊娠したが相手がはっきりしないことを悠子に打ち明けたるのだが……。


全448ページの小説であり。あらすじだけでだいぶ長くなったが、これでもかなり端折っている。リキの同僚のテルや悠子の友人で日本画家のりりこは、アクの強いキャラクターで、それぞれのサブストーリーにも面白さがあるのだが触れる余裕はない。

「ホストマザー」と「サロゲートマザー」

ここからは、小説を理解する上で欠かせない代理母(代理出産)について解説する。

代理母には「ホストマザー」「サロゲートマザー」の2種類がある。ホストマザーは、代理母とは異なる卵子(主に依頼する側の妻)を体外授精し、その受精卵を代理母の子宮に入れる。いわゆる借り腹だ。

サロゲートマザーは、夫の精子(もしくは精子バンク)と代理母の卵子を授精させる。このとき精子は、カテーテル(長い管)を使って代理母の子宮に注入するのが一般的とされる。

米国では代理出産が商業的に行われている。日本では日本産科婦人科学会(以下、学会)が禁じている。ただ、代理母を禁じる法律はなく、1962年に下された「分娩した女性を実母とする」という最高裁判決に基づき、日本では代理出産で子どもが生まれた場合、代理母が戸籍上の母となる。人工授精については、国内では学会や日本生殖医学会の指針により、婚姻または事実婚の関係に限定している。

この小説のリキの場合は、サロゲートマザーである。また基と悠子は、リキに人工授精させるためにわざわざ離婚し、リキを草桶姓として「婚姻」の関係を作った。リキが出産したら子供を基が引き取って、離婚。基と悠子が再婚するという計画を立てていた。しかし、離婚したことで悠子の気持ちが基から離れてしまい、復縁しないと言い出すなど、法律への対応が物語に起伏を与える要素になっている。

代理母を使う側の論理

基はなぜ代理母に依頼してまで子供を手に入れようとしたのだろうか。理由は2つ。一つは遺産、もう一つは遺伝子だ。

草桶家は資産家だ。母の千味子の実家が裕福だったからだ。その千味子は基に遺産相続の不安について打ち明ける。

あなたが悠子さんより先に死んだら、その遺産は全部悠子さんのものになるのよね。子供がいないんだから。それはいいのよ、だって、あなたの奥さんなんだから。でも、悠子さんが、その後すぐに不慮の事故とか病気で亡くなったら、あなたが受け取った遺産って、悠子さんのさきょうだいや親戚にいくことになるじゃない。私、それ考えたら、急に目が冴えて眠れなくなっちゃったのよ

桐野夏生『燕は戻らない』

悠子のすぐ下の弟は、「ファミレスチェーンの本部で働くサラリーマンで、その妻はパート主婦」。一番下の弟・則之は、三十八歳だが、高校の時に不登校になって以来、家に引きこもり続けている。また言語発達遅滞だと診断された姪がいる。悠子の出自はどちらかと言えば、“持たざる”層にあり、誰もがうらやむ草桶一家とは対照的な親族がいる。

続けて千味子は「あのニートの方の弟さんを、うちのお金が潤す可能性もあるんだと思ったら、ショック受けちゃったのよ」と身も蓋もない本音を語る。基も「わかるよ。俺もそのこと聞いて、ちょっと不快になった」と同意する。

ここで、持てる者は、自分たちの資産を持たざる者に分配することの不快を語っている。持てる者は、自分たちが今の暮らしを維持し、それを子孫に継承することを望む。そこに持たざる者が加わることを許さない。そのために、なんとしても自分たちの子をつくる必要があるのだ。

もう一つの理由、遺伝子について基は語る。

俺の遺伝子を受け継いだ子を見てみたいと思う気持ちがある。それがエゴだってわかってるんだけど、どうしてもあるんだよ。だから、昔の大奥とかいいな、とか思っちゃってさ

『燕は戻らない』


そしてリキが男女の双子を妊娠したと知った基は妄想をふくらませる。「息子にも勿論、バレエを習わせるつもりだ」「中学までは無理にでもやらせる。肉体が美しく柔軟になるし、バレエを通して世界を知ることができるからだ。自分がそうだった。だが、男の子には学歴も必要だ。いずれは、中学受験を考えねばならない」「女の子は可愛い制服のある私立小にでも入れて、徹底的にバレエを仕込んだらどうだろう。うまく千味子の遺伝子を受け継いでくれれば、体格もバレエに向いているだろうし、容貌も悪くないはずだ」
基はバレエ一家に生まれ、自分もバレエダンサーとして頂点を極めた。その優れた遺伝子を残し、できれば自分と同じバレエダンサーに育てたい。また遺伝子を残すことに責任も感じている。

一方、悠子は、基の代理母を選ぶ行動の根底に潜む危険な思想に気付いている。

よい卵子。よい精子。これは、優生思想そのものではないかと思ったのだ。反射的に、則之や姪のことが頭に浮かぶ。なのに、そこに自分たち夫婦も荷担するかもしれないのだ。紐泥たる思いがあった。不意に、自分たちが卵子提供か代理母という選択をするとしたら、自分の遺伝子は排除されるという事実に気が付いた。基がそれを望んでいるのではないか、と思うと、動悸がするほど悲しかった。

『燕は戻らない』

「よい卵子。よい精子」。そこから生まれる子には、良い遺伝子が引き継がれているだろう。基の「優生思想」によって良くない遺伝子の持ち主として排除される悠子の絶望は深い。基の遺伝子にかける思いには、薄暗い執念のようなものが感じられる。

上の場面の少し前に、悠子は、「よい卵子」からの連想で、あるアート作品を思い出す。それは、無骨な両手が、人形大の少女の白い腹を押して股からイクラを絞り出し、それが盛られた白い飯の上にこぼれるというもの。これは明記されていないが、会田誠の版画「とれたてイクラ丼」だ。悠子は、妊娠できない自分の卵子について考えるとき、強迫観念のように「イクラ丼」を繰り返し想起する。このイメージは、男(社会)が抱いている「子を産むための機械」としての女性像を効果的に示している。

ところで「自分の遺伝子」を残すことに執着する基の姿から、私はタレントの向井亜紀のことを思い出した。

向井亜紀の代理出産と「優秀な遺伝子」発言

この小説の設定がリアルだと感じられるのは、現実の出来事や事件を物語の設定に効果的に組み込んでいるからだ。

その一つが先に言及した向井亜紀の事例だ。向井はプロレスラーの高田延彦と結婚したものの子宮がんを発症し、出産が不可能になった。しかし子供をあきらめることができず、米国での代理出産により2003年に無事、双子を得た。

ところが帰国してから問題が発生する。品川区で夫婦の名で出生届けを出したものの受理されなかった。向井は不服として訴えを起こすが、最高裁判所は向井の主張を退けた。双子を生んでいない向井は戸籍上の母になれないという理由だ。

その後、向井と高田は双子の特別養子縁組を申請し、2009年3月に家庭裁判所がそれを承認。戸籍には向井・高田を両親として双子が嫡出子として記載された。特別養子縁組によって、代理母との法的な親族関係が消滅するためだ。

向井は、代理出産を発表する記者会見で「高田の優秀な遺伝子を残したい」と語ったことが知られている。私が向井亜紀を想起したのは、この発言があったからだ。加えて、基の「まるで筋肉標本のような肉体」と高田の大胸筋が発達し、プロレスラーとしては締まってバランスの良い体型とが重なる。どちらも人前に体をさらす立場であり、それぞれの世界での成功者である。

小説では、基が自分の遺伝子を残すことを願ったところと、向井の場合は妻が夫の遺伝子を求めたところが異なる。しかし、作家は向井の代理出産の経緯と遺伝子発言を念頭に置いて、基というキャラクターを造形したというのが私の推測だ。

「優秀な遺伝子」は代理母を使ってでも残したい、残さなければならない。こうした使命感に駆られたかのような発言を聞くと、発言者の意図とは別に、悠子がそうだったように、優秀でない遺伝子は残すまでもない、さらに一歩進んで排除したほうがいいという優生思想の響きを聞いてしまう。

『燕は戻ってこない』/Amazon

ベビーM事件とは

小説に生かされている現実はほかにもある。代理母に関するトラブルとしてよく知られている「ベビーM事件」だ。

米国のスターン夫妻が、28歳のメアリーと代理母契約を結び、子供を得た。しかし代理母が子の引き渡しを拒否し、子を連れ去ったことから事件になった。

スターン氏は生化学者で、妻は小児科医。一方のメアリーは、中卒で無職。二人の子供がいた。メアリーが健康な子を生んだ場合、1万ドルを受け取る契約だった。両者の立場には明らかに格差がある。メアリーは「代理母はすばらしい人助けの方法だと考えていました」と主張しているが、持てる者が持たざる者に金を払って子宮を使用しているという関係があるのは明らかだ。

しかも契約には代理母に不利な内容が盛り込まれていた。「妊娠したら薬をいっさい飲んではいけない。羊水診断を受け、胎児に障害があれば中絶すること、その場合は報酬はなし。流産・死産には千ドル、健康な子が生まれたら一万ドルを受け取る。出産後、ただちに養子契約にサインし、親権を放棄する。二年以内に妊娠しなかったら、報酬はなし」(立岩真也『私的所有論』より)。メアリーは、サロゲートマザーとして九回の人工授精を受けた後、妊娠した。

メアリーが子を連れ去った後、スターン夫妻は私立探偵を雇って居場所を捜索し、メアリーの実家にいることをつきとめる。現場には警官が踏み込んで子を奪い返した。

メアリーが訴えを起こしたが、ニュージャージー州最高裁判所は、金銭の授受をともなう代理母契約は、新生児売買を禁止する州法に抵触するために「無効」とした。その上で、父親を、遺伝上の親でもある依頼人の夫ビル・スターンとし、母親は遺伝上の親であり、生みの親でもある代理母のメアリーであるという判決を下した。ただし、養育権については「子どもの最善の利益」を考慮して、スターン夫妻にを認めた。メアリーには子を訪問する権利が与えられた。

つまり、メアリーは、持たざる者であるという理由で、子の母親でありながら、養育権を奪われたことになる。

「ベビーM事件」のスターン夫妻とメアリーの間にあった格差は、小説の草桶夫妻とリキの間の格差に置き換えることができる。28歳のメアリー、29歳のリキと年齢も近い。さらに、メアリーが結ばされた厳しい契約内容は、基が行動を厳しく管理するメールをリキに送った場面や出産後、リキが子供たちに会わないという内容の誓約書にサインを求められた場面に通ずるものがある。

作家はおそらくこの事件も大いに参考にしながら、小説の設定を練り上げたはずだ。

リキの復讐と未来

ここまで、作家が参考にしたと思われる実際の事件などを見てきたが、小説のもう一つの関心事は、持たざる者であるリキが、持てる者である草桶基にどう「復讐」するかにある。リキは、基の自分に対する扱いに終始不満を感じていた。だからこそ契約違反を承知で他の男と関係を持った。

双子の顔を見た悠子は急に態度を変え、基と復縁すると言い出し、リキに先述の誓約書と離婚届にサインを求めた。それまで悠子はリキの理解者として振る舞ってきた。しかし、この時点でリキは味方と思っていた悠子にも裏切られた格好だ。

草桶夫婦は、病院に毎日やってきて双子の顔を見て、舞い上がっている。体も心も傷ついたリキは、夫婦への不満をつのらせながら、最後に何かを企てているのではないか。読者はそう期待するだろう。

リキが草桶夫妻にどのように復讐したのかは、最後のページで明らかになる。それはここでは書かない。リキの復讐が、草桶夫婦の幸せ気分に水をさして一矢報いるのは確かだ。リキの決断と行動によってカタルシスを得る読者もいるかもしれないが、それほど楽観できないのではないか。

リキは自分の体と心を犠牲にして、彼女にとっての大金を手にするが、復讐の結果としてさらなる貧困を抱え込むことは目に見えている。「ベビーM事件」の結末を知っている私たちは、彼女が逃げ切れるとは思えないだろう。そういう意味で、暗い読後感を残す結末である。

参考文献

代理母出産や卵子提供を含む生殖補助医療とそれが含む倫理的な問題。「ベビーM事件」については、以下の小林亜津子『生殖医療はヒトを幸せにするのか~生命倫理から考える~』 (光文社新書)を参考にした。

『生殖医療はヒトを幸せにするのか~生命倫理から考える~』/Amazon

向井亜紀の例や代理出産のビジネス的な側面については、柘植あづみ『妊娠を考える ―〈からだ〉をめぐるポリティクス』(NTT出版ライブラリーレゾナント)を参考にした。

『妊娠を考える ―〈からだ〉をめぐるポリティクス』/Amazon

「ベビーM事件」の契約内容は、立岩真也『私的所有論 第2版』(生活書院)による。

私的所有論 第2版/Amazon

コメント

タイトルとURLをコピーしました