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【解説】朝比奈あすか『君たちは今が世界』感想・あらすじ 小学生の悪意と狡さ、そして希望

君たちは今が世界カバー小説
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開成中学や海城中学など有名校の入学試験に出題されたことで話題となった朝比奈あすか『君たちは今が世界(すべて)』(KADOKAWA)の書評。小学校の教室で何が起こり、子どもたちは何を感じているのか。親が容易に知り得ないことを、この作品は子どもたちの視点からリアルに描き出す。

親は学校での子どもの様子を知りたいと思う。しかし、簡単には知り得ない。子どもに「最近、学校どう?」と尋ねても「ふつう」とか「まあまあ」という返事が返ってくるだけだ。子どもとしては、親に話しても理解されないと思っているのだろう。

以前は、授業参観があり、教室での子どもの振る舞いを短い時間ではあるが観察できた。今はそういう機会もほとんどなくなり、教室がブラックボックスになっている。

それでも様子はもれ伝わってくる。A先生のクラスは荒れていて、授業が成立しないとか、B君は感情をコントロールできなくて、友達や先生に暴力をふるう、Cちゃんは言葉遣いが悪いので一緒に遊ばせたくないといった、良くない噂が多い。

子どもは、教室で対教員、あるいは子どものグループ内やグループ間に作用している微妙なパワーバランスの中で、多様な感情を経験しているはずだが、それを語る言葉を持たない。教員は、多くの場合親に対して建前や良いことしか伝えようとしない。その結果、教室での出来事とそこで子や教員が何を感じているかを親は知ることができず、不信感を募らせる。

外からは伺い知れない教室での出来事、子や教員の感情の揺れ、それを取り巻く親の反応などを総合的に描き出せれば、その作品は多くの人にとって得難いものになる。 『君たちは今が世界』 は、そうした課題に挑戦し、成功している。

この小説を読むと、教室という空間にいる子どもたちの行動と心情を彼らの内側から体験しているような気分になる。小説家がまるで教室に潜入して、子どもたちに密着して観察したかのようだ。小説家は子どもを無垢な存在として持ち上げているわけではない。子どもの悪意や狡さからも目をそらさない。この絶妙な距離感が小説に説得力を与えている。

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あらすじ・主な登場人物(第一、二章)

(※小説のネタバレを含みます。単行本版の内容に基づいています)

この小説(単行本版)は第一~四章、エピローグで構成され、主な登場人物は、ある小学校の6年3組の生徒たち。章ごとに主人公(視点人物)が変わる。それぞれの主人公の友人や親、教員との関係、教室内での立場、グループの特徴、学校の外で見せる顔などを巧みに書き分けて、教室という空間で日々起きている事件や感情の起伏を立体的に描き出している。

例えば「第一章 みんなといたいみんな」の主人公、尾辻文也は、同じクラスの小磯利久雄瀬野敏といつも一緒につるんでいるが、二人から少し下に見られていると感じている。しかし、彼らと一緒になってはしゃぐことが楽しいので離れられない。

教室で子どもたちは勝手気ままに振る舞っていて、学級崩壊の気配が漂う。担任の幾多先生は、二十代だが見かけが少し老けていて、ゆっくりと話す。それもあって、子どもたちからはみくびられていて、影で「ニクタ」「ニクタ先生」と小馬鹿にしたあだ名で呼ばれている。チャイムが鳴っても、子どもたちは席につこうとしなかったり、授業中に生徒同士で示し合わせて、幾多先生が板書している間に、机を180度回転させたりする。

調子に乗った生徒たちは、家庭科の授業でも妨害の計画を立てる。家庭科は専門の浜田先生が担当しているが、やはり喋りかたがおっとりしていて、生徒を叱らないタイプだ。それをいいことにパンケーキを作る実習で、先生が目を離した隙きに、生地に洗剤を入れようとする。計画を発案したのは利久雄と女子グループで、文也は洗剤投入を指示された。やりたくないが「尾辻ならやれる」とおだてられ断れない。仲間が浜田先生を呼び寄せて、教室の外に追い出し、その間に文也が洗剤を垂らした。

浜田先生が戻ってきて泡立て器で生地をかき混ぜると、際限なく泡が出て、子どもたちは笑う。慌てた先生が確認するために生地を指に付けて舐めたところ、気持ち悪くなりすぐに吐き出して教室を出て行ってしまう。これが大きな騒動になり、最終的には実行係の文也だけでなく、立案者の利久雄らも含めて謝罪することになった。

利久雄は、この件で幾多先生に説教されたことを根に持ち、文也に復讐を提案する。そして今度も文也に実行役をやらせようとする。文也は、利久雄の指示に従いたくないが、それを言い出せずにいる場面でこの章は終わる。

「第二章 こんなものは、全部通り過ぎる」の主人公は、川島杏美。彼女の将来の夢は、国連職員。偏差値の高い私立中学に入って、英語を勉強しようと考えている。ガリ勉と陰口をたたかれるのがいやで、授業中、積極的に発言はしない。

一方、杏美と保育園のときから仲が良かった前田香奈枝は、ダンスを習っていて、教室では目立つタイプの女子グループのリーダー格だ。休み時間には教室の後ろに集まって騒いだり、踊ったりしている。

保育園の頃は、杏美と香奈枝の立場は逆だった。杏美は保育園の同じ学年の子たちの中で、一番背が高く、何をやっても他の子より何でもよくできた。一方、香奈枝はクラスで一番背が低く、何もかも杏美に負けていた。しかし、成長するにつれて、香奈枝は本来の気が強くわがまま性格を押し出すようになり、教室でも存在感を発揮しはじめた。

そんな香奈枝たちのグループは、杏美に宿題の計算ドリルの答えを見せるように当然のような顔で頼んでくる。杏美は見せたくないが、しぶしぶ応じる。プールの時間には、杏美は腕が毛深いことを、香奈枝たちからからかわれ、傷ついていた。二人の力関係が変わったことに、杏美は苛立ち、香奈枝から距離を置きたいと考えている。

杏美は、自分らしさを思うように表現できない学校よりも、塾の方が居心地がいい。彼女にとって学校は「仮の居場所」であり、嫌なことがあっても「こんなものは、全部通り過ぎる」と自分に言い聞かせてやり過ごしている。それでも香奈枝の傍若無人な態度、彼女に強く出られない周囲の女子、そして誰よりも自分自身への不満は溜まっていく。

そして、いつも通り、宿題を見せてほしいと言ってきた香奈枝に、杏美はわざとデタラメの解答を書いたノートを渡す。

すでに「あらすじ」だけで長くなったので、以降の章は主な登場人物と簡単な内容説明だけにする。

あらすじ・主な登場人物(第三、四章、エピローグ)

「第三章 いつか、ドラゴン」の主人公は、武市陽太。発達障害らしく、低学年の頃は、大きな声を出したり、衝動を抑えられなくて動き回ったりすることがあった。母子家庭で、昼間はいつも一人で過ごしていた陽太は、夏休みに大学生の折り紙サークルに参加して、折り紙の面白さに目覚める。

「第四章 泣かない子ども」の主人公は、見村めぐ美。父親は海外に単身赴任していて、母と姉、兄の4人で暮らしている。しかし、母は家事が苦手で、夜中でも飲みに出かけるなど子どもに関心を払わない。彼女は、勉強が苦手で、算数は問題の意味さえ分からない。合奏会でアコーディオンを担当することになったが、「譜読み」が分からず、練習しないままほったらかしていた。誰にも頼れずにいためぐ美は、ピアノを習っていた小磯利久雄に、思い切って「譜読み」について尋ねた。利久雄にやり方を教わり、自分でもノートに鍵盤を書き写す。めぐ美は初めて自ら一歩踏み出し、努力してみようと思う。

「エピローグ」の主人公は、増井智帆。 見村めぐ美と同じマンションに住み、同じ教室に通っていた彼女は成長して小学校の教員になっている。当時家庭科の授業を妨害し、幾多先生から「皆さんは、どうせ、たいした大人にはなれない」と言われたことが忘れられず、心に留めていた。 智帆は、幾多先生の言葉が「子どもたちをいっしょくたにして切り捨てる」ものだと批判する。そして、自分は、「目の前にいる子どもたちを、誰ひとり切り捨てないと」と誓う。一方で、教員として失敗や厳しい現実に直面し、あんな風に言わざるを得なかった幾多先生の気持ちも思いやれるようになった。そして子どもたちのことを「知りたい。知ろうとし続けたい」と考える。

教室で増幅される暴力

この小説に出てくる小学生は、学校と家庭の中で、綱渡りするような緊張感を抱えて生きている。特に、教室という狭い空間は、数十人の子どもが詰め込まれているという意味で異様な場所である。その中で子どもは、人間関係の政治を学び、「空気を読む」スキルを身に付ける。

空気を読み誤れば、いじめの対象になり、たちまち居場所を失うからだ。尾辻文也だけでなく、川島杏美見村めぐ美も自分が属するグループからはじき出されることを恐れて、仲間の顔色ばかり伺っている。一方で、他グループの子や自分より立場が下とみなした相手には、残酷なほどの態度で接する。

おとなしい子や人と違った行動をする子はいじめのターゲットにされる。文也は運動が苦手で友達も少ない。利久雄はそんな文也を仲間に引き入れる一方で、手下のように扱って、汚れ仕事を押し付ける。ガリ勉タイプで引っ込み思案の杏美は、 腕の毛深さをめぐ美からずけずけと指摘されたり、当然のように宿題ノートを見せるように求められたりする。

強いものに従い、弱いものには暴力を行使してもいいという子どもたちの態度は、教師にも向けられる。生徒同士のいじめや喧嘩は私が小学生だった1980年代にも当時もあった。しかし、ほとんどその場限りのことで、この小説に描かれるような陰湿で執拗なものではなかった。教室はこんなに殺伐とした空間ではなかった。当時の子どもには、「こんなことをしたらかいわいそう」だとか、「これはひどすぎる」といった意識がそれなりにあって、暴力のブレーキになっていた。この小説の子どもたちの多くに、こうした意識が欠けている。それがなんとも不気味だ。

この小説では、文也の親は、幾多先生の容姿を侮るような態度を見せている。文也はそうした親の意識を学んで、教室で反復しているように見える。まためぐ美は、家庭で兄と姉から暴力を振るわれ、母からは育児放棄されている。この家庭でのストレスを教室で生徒や教員にぶつけているようなところがある。多くの子どもがこれと似たような家庭環境にあり、弱いものを馬鹿にしてもいいという意識を持っていて、それが教室という特異な空間で増幅された結果、コントロールが利かない状態になっているのではないか。

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