井上荒野『生皮』(朝日新聞出版)の解説。小説講座と俳句結社。それぞれの指導者が起こすセクハラとそれが周囲の人間にもたらす波紋を描く。自分の行為を正当化する指導者、被害女性を中傷する女性らの言動によって、セクハラが起こる構造や空気が浮かび上がる。
小さな集団の権力者が起こすセクハラを巡る小説である。二つの集団が選ばれている。一つはカルチャースクールの小説講座、もう一つは、俳句結社。前者では小説講座を担当する中年の講師(男)が複数の受講生(女)と、後者では、結社の高齢の主宰者(男)が複数の会員(女)と、それぞれ関係を持つ。そして、それぞれの被害者が講師と主宰者を雑誌記事で告発する。
告発は、周辺の人たちに様々な形で波紋を広げる。そうした当事者および周辺人物の心理や言動を詳細に描くことで、セクハラが行われる権力構造と、周囲からの反応で被害者が心身ともに追い込まれていくプロセスが鮮やかに浮かび上がる。
2022年3月ごろから映画業界での監督やベテラン俳優らによる、性加害が連日報道されている。小説の連載が完結したのは、2021年9月に発売された「小説TRIPPER(トリッパー)」秋季号だから、今の状況を先取りしていたことになる。
この状況を待っていたかのように、本書は2022年4月7日に発売された。出版社がこのタイミングを逃してなるものかとマーケティングに力を入れるのは当然だ。3月30日から4月3日まで、本書の全文を朝日新聞出版公式noteで公開した。これまでも小説の一部を公開する例はあったが、誰でもアクセスできるかたちで全文というのはあまり聞いたことがない。それほど出版社と著者はこの小説を多くの人に知ってもらいたかったわけだ。私も、ツイッターで全文公開を知り、小説を読んだ。
※2022年4月12日、小説家の山内マリコと柚木麻子が「原作者として、映画業界の性暴力・性加害の撲滅を求めます。」と題した声明文を発表した。井上荒野は賛同者に名前を連ねている。
セクハラの力学
芸能界などのセクハラ報道を見て、仕事面で優遇する見返りとして肉体関係を要求した結果であり、相互納得済みの取り引きのようなものである、そんな風に理解していた。
しかし、実情は違うのではないか。加害者と被害者の間には、もっと抜き差しならない力学が働いているというのが作者の見立てであり、この小説で訴えたかったことなのだと思う。
その力学とは、私の解釈ではカルト宗教の教祖と信者との間に作用するものに近い。この小説の軸となる小説講座のセクハラでは、講師が小説という〈神〉から啓示を受けた教祖のように振る舞い、気に入った受講生に接近する。受講生は、教祖の言葉を信じ、教祖を通して神に近づきたいと思う。そこにはマインドコントロールめいた言葉のやりとりがあり、受講生は講師の主張に抗えない。
こうしたセクハラの力学を解説する前に、まずはあらすじを整理しておく。このあらすじは、小説の軸となる小説講座で起こったセクハラに限定した。サブストーリーの位置付けである俳句結社でのセクハラについては、別の項で解説する。
あらすじ・主な登場人物
(※小説後半の内容に言及しています)
この小説は、視点人物が入れ替わるかたちで展開し、セクハラをめぐる状況を俯瞰的に描いていく。
主人公格の柴田咲歩(旧姓・九重)は、動物病院の看護師として働く。夫の俊と二人で暮らす。彼女は7年前の独身時代にカルチャーセンターの小説講座に通っていた。そして、講師の月島光一からセクハラを受けたことが心の傷になっていた。
俊から子作りを提案されるが、咲歩はその気になれない。セクハラが原因だった。
私は子供を産みたくないのだ。
井上荒野『生皮』
咲歩はそのことを認めた。なぜなら、私は自分の体がきらいだから。この体から出てくる子供を抱きたくないから。俊にも抱かせたくないから。なぜなら、私の体は汚れているから。あの男に汚されてしまったから。
月島光一は、元編集者で、妻・夕里、娘・遥と3人で暮らす。彼は小説に対して誰よりも熱い思いがあると自負していた。上司と衝突して出版社を辞め、今は小説講座の講師や小説コンクールの審査員をしていた。
これまでに2人の受講生が芥川賞を受賞した。そうした実績から月島の講座はすぐに満員になるほどの人気だった。また、「テレビ映え」する容姿もあり、カリスマ講師として、メディアにも頻繁に取り上げられた。
彼は、気に入った生徒がいると下の名前で呼び、公然と「えこひいき」する。さらに指導の延長で酒場に呼び出し、ホテルの部屋も用意する。咲歩の小説が小さな賞の候補作に残ったことをきっかけに、月島は「昨日話し足りなかったからさ」と言って、ホテルのロビーに咲歩を呼び出し、ホテルの部屋に連れ込んだ。
月島に押し倒された咲歩は、次のように自分を納得させる。
月島先生が喜んでくれているから。私のために今日、時間を作ってくれたのだから。この部屋までついてきたのは私なのだから。これが終わったら小説の話をしてもらうのだから。今こうしていることだって、小説のためになるのかもしれないのだから。
井上荒野『生皮』
ある日、月島のセクハラを告発する記事が週刊誌に掲載される。情報を提供したのは咲歩だった。記事はたちまち話題になり、ツイッターでは「セックスはふたりでするものだよねw」「誰かに入れ知恵されたんだろ」「作家になれなかった逆恨み?」といった興味本位の投稿があふれる。
加納笑子は、70代で月島の講座を十年近く受講していた。咲歩が受講していた時期とも重なり、街で偶然会い、焼き鳥屋で二人で飲んだこともあった。
笑子は「月島先生はセクハラなんかする人じゃない」と信じていた。そして、小説講座の休講が決まったことを受け、彼を応援するための署名運動を立ち上げる。
芥川賞を受賞した小説家の小荒間洋子も月島の教え子だった。そのため月島のセクハラについての弁明を目的とした対談企画を出版社から持ち込まれ、洋子は承諾した。実は洋子も月島からセクハラを受けていた。二人で取材旅行に行った際、予約したのが一部屋だけだった。そこで強引に押し倒された。洋子は、最初は逃れようとしたが、結局あきらめた。
洋子は、「こんなのはどうってことはない」と思い込もうとし、その後も小説講座に通い続けた。小説家になってからも何度も月島と顔を合わせた。しかし二人きりになる機会を避けたので、体の関係を求められることはなかった。
ある日、義妹の清佳が五歳の姪を連れて、洋子の実家にやってきた。その姪を抱きしめたとき、洋子は本当は月島との出来事を嫌悪していたことを認識する。
月島と会うときはいつでも、体の中に腐った黒い泥のようなものが詰まっていた。さっきの電話のときもそうだ。大人の関係なんかじゃない。小説的関係なんかであるものか。
井上荒野『生皮』
洋子は、ある決意を秘めて月島との対談の場に赴くのだが……。
文学サークルとカルト宗教の類似点
俳句結社の場合
先に書いた通り、この小説では、軸となる小説講座でのセクハラと別に、サブストーリーとして、俳句結社でのセクハラが描かれる。
五十歳の池内遼子は俳句結社に所属していた。主宰は、俳句会の重鎮で七十代の林田隆。林田は、複数人の女性会員と関係を持っている。遼子もその一人だった。遼子が俳句にのめり込んだのは、プロの俳人を招いて開催される大会で自分の俳句が選ばれたことがきっかけだった。選んだのは林田。「あなたには独特の感性があるね」と言われて舞い上がった。結社に入って半年もしないうちに、林田から遼子と呼ばれるようになり、ホテルに誘われた。
遼子が入会したのは三十五歳。以来自らすすんで林田に身を任せてきた。むしろ林田とそういう関係にあることが誇りでさえあった。
それよりも興奮したのはそのあと、先生の生身の肌に触れたときだった。俳人林田隆の肌。尊敬する、憧れの先生の肌。その瞬間、結社の中の誰よりも、自分は先生の近くにいるのだという事実が、それまで経験したことのない官能となって私の中でめちゃくちゃに暴れた。
井上荒野『生皮』
俳句結社の主宰者と会員の異様な関係が語られている。どこか宗教的な印象がある。また結社という集団の中で、その中心人物に近い場所にいるという自負が遼子を高揚させていることが分かる。
これ以降、遼子は林田から信頼され、結社内の雑務を取り仕切るようになる。林田が気に入った女性会員をあてがうのもその一つ。林田の要望で、泊りがけの吟行会で篠田桃子を二人になる場を設定した。
この後、桃子は句会に顔を見せなくなる。しばらくして、雑誌のセクハラ特集において、結社での林田の行状がH氏という仮名で暴かれることになる。
〈神〉としての「小説」と教祖
小説講座と俳句結社という2つの文学サークルの描かれ方から、私はカルト宗教に近いものを感じた。これらのサークルは、小説あるいは俳句という〈神〉を信仰する集団である。それぞれの指導者は神の言葉を信者に告げる教祖であり、神の代理人である。
教祖は神の言葉を独占する。無知な信者は教祖の言葉をありがたく受け止めるしかない。信者が神に近づくことは、教祖に近づくこと以外ではない。こうした構図に、教祖(講師、主宰者)と信者(受講生、会員)との身体的な接触が不可避となる理由がある。
月島は、受講生に対して、自分だけが小説の真理を知っているかのように、つまり教祖のように振る舞う。小説及び受講生に対する思いを月島は語る。
小説とは何か。小説を書くというのはどういうことなのか。俺が教えたいことは煎じ詰めればそれになる。それを理解させるのは一苦労で、だから誰にでも教えたいと思うわけもなく、しかしこれと思う者があらわれれば俺は力をつくす。そして熱心になればなるほど個人的に距離を詰めていくことになる。
井上荒野『生皮』
人を愛するという欲、それから、小説にかんする欲、つまりいい小説を書いてほしいという欲が僕の中にはあって、まあ相手が女性の場合は、ここに性欲も加わる、それは否定しません。
そして月島は自分に近い受講生を下の名前で呼び、他の受講生と区別して、接近していく。
講師としての月島は、有能であり、実際に受講生に適切な言葉をかけて導く場面も描かれている。だからこそ多くの受講生から支持されている。こうした能力も教祖を想起させる。教祖がなにやら施術したり、言葉をかけたりすると信者の悪いところがたちまち良くなるというのはよくあることだ。月島は、こうして得た受講生からの信頼を自分の欲望を満たすために利用する。そしてセクハラが起こる。
月島にとって受講生と肉体関係を持つことは、小説の指導の延長にある。だから受講生は、それを受け入れてその場では納得してしまう。月島は、受講生の咲歩に文芸誌の新人賞に応募することを目標に小説を書くことを提案する。そして「そのためのアドバイスをしたい。どうしても咲歩にいい小説を書かせたい。講座だけでは足りないから、時間をべつに設けたい」と言って、咲歩をホテルの部屋に連れ込んだ。
ホテルの部屋で押し倒された咲歩は、当時のことを次のように語る。
あの人は私に言ったんです。小説を教えることには限界がある、でも俺たちはその限界を突破したいよね、って、私に同意を求めたんです。そして私は、はい、と答えてしまった。三回目のとき、私はそのことを思い出していました。咲歩は小説を書く女だよね、そうだろう、と、これは何回目のときだったのかな……あの人はそうも言いました。はい。私はやっぱりそう答えた。それはセックスへの同意でもあったんです。あの人がそのつもりでその質問をしたことを、私はわかっていました。私は小説を書く女だ。だからこんなことは平気だ。私は小説を書く女だ。月島先生がそれを認めてくれた。だから今私たちはこうしているんだ。私はあの人とセックスしながらそう考えていたんです。
井上荒野『生皮』
被害者がセクハラを受け入れる心理
引用した咲歩の回想から、〈小説〉教の信者がカリスマ指導者という名の教祖にほとんど心を支配された状態になっていたことが分かる。月島は、小説を教えることが、セックスに直結するという身勝手な論理を語る。その論理を咲歩は内面化し、心の底では違和感を抱きながらもセクハラを受け入れている。それほどまで咲歩は、月島の欲望の論理に支配されている。
月島の受講生で、小説家として活躍する小荒間洋子も月島から受けたセクハラを受け入れていた。
私はね、あれは恋愛だったって思い込もうとしていたの。小説を教えるということは、その相手とある種の恋愛をしなきゃならないということだ。私と寝たあと、月島は講義でそう言ったのよ。場合によってはそれはセックスみたいなものになるかもしれない。誰にもまだ触られてない部分を探りあてて、触ることになるわけだから。小説を書くというのはそういうことです。そう言ったの。受講生全員に向かって話しかける体裁で、私に言い含めていたんだと思うわ。そして私は言い含められたのよ。
井上荒野『生皮』
洋子も咲歩と同様に、当時は月島の身勝手な論理を信じ、表面的には納得した。月島と受講生の関係にカルト宗教との類似点を感じるのは、このような部分だ。被害者の内面まで支配する指導者の影響力、それを受け入れる被害者。この関係が不気味で恐ろしい。
月島から距離を取ることで、咲歩も洋子も次第に心の支配が解け、自分を無理に納得させていたことに気付く。本音を抑え込んでいたことで体も不調になり、もはや自分を騙し続けることができなくなる。そして彼女たちは告発を決断した。
咲歩が、セクハラを受けてから告発するまで7年が経っている。洋子の場合はそれ以上の年月が経過している。これは、心の支配が解け、当初納得していた自分を否定し、あれがセクハラだったと認めるまでに要した時間だと考えれば納得がいく。心の支配を解除することはそれほど難しいことなのだ。
ところで、月島の中にあるカルト宗教の教祖めいた人間性については、娘の遥が適切に批評している。週刊誌の記事を読んだ遥は、父を次のように詰る。
小説を持ち出せば何をしても許されると思ってるのね。神様だとでも思ってるの? 自分のこと
井上荒野『生皮』
若い遥は父が神あるいは神の代理人として振る舞いって、女たちを喰い物にしていることを見抜いている。この冷静な判断力は希望だが、誰もが持っているわけではない。遥には、バンドを組んで音楽活動をしていた時、自称音楽プロデューサーからホテルに連れ込まれそうになり、ぎりぎりのところで振り切って逃げたという経験があった。こうした強さを誰もが持てないからこそセクハラがこれほど問題になる。
年配女性がセクハラ被害者を追い詰める
もう一つ、この小説で興味深い点があった。年配の女がセクハラに加担し、被害者(女)をさらに追い詰める様を描いていたところだ。先に書いたように、俳句結社の遼子が、林田と篠田桃子が二人になる場を設定し、セクハラを演出していた。
その前に、桃子から「先生が女性を名前で呼ぶことを、池内さんはどう思われますか」と相談された際、遼子は「どうって……べつに、どうも思わないけど」「世代的なものかしらね。私はむしろ嬉しいけど。先生の弟子として認めていただいたみたいで」と突き放していた。本人の不信感を知りながら、生贄として主宰者に差し出したわけだ。
小説講座では、加納笑子は、咲歩から月島が個人的に電話してくることへの不安を聞いていた。しかし、咲歩の気持ちに気付かず、受け流してしまう。それどころか、セクハラ報道があってからの受講生が集まる飲み会で、咲歩が月島からの電話について話ながら「得意そうに笑っていた」と証言してしまう。その後、月島を支援するための署名運動を立ち上げたのだ。
小説では年配女性のセクハラに対する無自覚・無理解が強調されていて、被害女性にとって深刻な状況が浮き彫りになる。
セクハラを避けるには
この小説が描いたセクハラの力学を考えると、セクハラ被害を未然に防ぐことはかなり難しい。カルト宗教が存続し、自発的に加入する人が後を絶たないことがそれを証明している。自分の欲望を満たすために権力を利用する加害者はいくらでもいるし、教祖の話法に身を委ねてしまう被害者も無数にいる。
竹下節子は、『カルトか宗教か』(文春新書)の中で人がカルトに加わる理由を次のように説明する。
メンバーは最初は誘惑されるが、結局は自分の意思でカルトを選択するのだ。カルトが人を無理やり回心させるわけではない。人がすでに持っている自己変革のモティヴェーションや、現実拒否の欲求や、憧れや理想を利用してうまく取り入るだけだ。
竹下節子『カルトか宗教か』
Amazonへ
これはセクハラにも当てはまる。月島のセクハラを受けた咲歩と洋子も、小説への憧れや小説家になりたいという動機を利用され、月島の接近を許し、二人きりになる状況を選択した。男の強引なやり方はあったにしろ、自分の意思はあった。だからこそ彼女たちは、苦悩する。なぜ私は最初から拒絶しなかったのか、拒絶できなかったのかと。
では、どうすればセクハラの被害を避けられるのだろうか。あからさまなカルトだけでなく、この小説に書かれたように、そうは見えない集団やサークルがカルト的な性格を備えている場合は少なくない。そうした集団で指導的な立場の人間が一部のメンバーだけが、下の名前で呼んでいたらまず怪しむこと。さらに、そのようなタイプの指導者と1対1で会わないこと。指導者は、特別に教えたいことがあるなどと理由をつけるが、信じてはいけない。これを徹底するしかない。
もし自分が、そのような人物と二人切りで会ってもよい、あるいは会う理由があると思ったとしたら、すでに「自己変革のモティヴェーションや、現実拒否の欲求や、憧れや理想」を利用されて、心を支配されているかもしれないと認識したほうがいい。
逆に集団の指導的立場にある人であれば、特定の誰かを下の名前で呼ぶことを避けるべきだろう。そうした時点で、本人にその気がなくてもすでにセクハラ的な空気を発散していると見られることになるのだから。
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