芹沢俊介の「イノセンス」論
この小説を読んでいる間、常に気になっていたのが近未来における「イノセンス」の在り方である。「イノセンス」は批評家の芹沢俊介が提示した、強制的に産み落とされる子供のあり方を説明する概念である。芹沢は、子には、生まれたことについての「責任がない」として次のように説明する。
自分が生まれてきたこと、そのことに対して、当人には責任がありません。イノセンスという考え方は、生まれたということに関しての、この疑いがたい事実に根拠を置いています。私はこの体、性、親、名前などという現実を「書き込まれて」この世界に人間として生まれてきたのです。このような書き込みとともに、生命を暴力的に受け取らされてしまったという点で、生誕は、親による一種の強制的な贈与と言っていいのかもしれません。
芹沢俊介『現代子ども暴力論増補版』「序 イノセンスの壊れる時」
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子がよく親に言い放つ「生んでくれと頼んだわけじゃない」という台詞は、子がイノセンスを表出しているわけだ。このイノセンスの表出に対して親は「イノセンスを解体したいという欲望の表出をただ受け止めればいいのだ。肯定しさえすればいいのだ。そうすれば子どもは、自己の選びなおしの機会を得たことになる」( 芹沢俊介『現代子ども暴力論増補版』「イノセンス論」)。しかし親は、この「受け止め」ができないことが少なくない。だから子に先のような台詞を言われると、カッとなって「あんたなんかうちの子じゃない。出ていきなさい」などと言い返したりする。これは、よくある親子喧嘩の場面だが、こうした子のイノセンスの表出には、親殺しの論理が隠されている。芹沢は、親は子から強制贈与の返礼を受ける可能性を次のように指摘する。
こういう現実(引用者注:イノセンス)を作り出したのは親ですから、その親を殺してしまえばいいということです。親を殺してしまうというところまでやればいい。子どもは産み落とされたわけですから、親は産んでしまったわけだから、生命を強制的贈与してしまったんだから、対等になるためには、自分(親)が殺されるというところまで考えればいいということになります。
芹沢俊介『子どもたちの生と死』
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親は子に命を強制贈与する見返りとして、子からの様々なイノセンスの表出を受け止めなければならない。それは最悪の場合に、子から強制贈与される死である。多くはないが、子が親を殺す事件は実際に起きる。逆にイノセンスを表出して荒れる子に耐えきれず、親が子を殺すケースもある。イノセンスは、出産が本来含んでいるはずの危険な可能性を示している。しかし、子の多くは、成長過程で様々な困難や不条理に直面し挫折を味わうものの、この世界で生きることを受け入れる。つまり、「責任がない」場所から、「責任を引き受ける」場所へと移行し、イノセンスは解消される。
イノセンス論の立場からは、合意出生制度は、親による生の「強制的な贈与」を問題視し、これを解消する役割を果たしている。胎児が出生について自ら選択するため、生まれ落ちた段階で一定の責任を引き受けており、イノセンスは解消されるからだ。果たしてそんなに上手くいくのだろうか。
胎児の権利は尊重されたのか
現実の親は自分たちの意思で子供を生むが、ためらいや罪悪感がないわけではない。この世界は不条理な出来事にあふれている。戦争や環境問題、自然災害、原発事故。これに感染症が加わった。こうした世界に子を生み落とすことは、不幸な人間を一人増やすことになるのではないか。それは親のエゴではないか。そう考えて、子を持たない決断をする人もいるだろう。
このとき、胎児の意思を確認する合意出産制度があれば、出産についての親の罪悪感は軽減される。合意出産制度は、そうした点で親から支持されているのではないか。小説では、次のように制度の効果を説明している。
親たるものは当然、自分の子供に幸せな人生を送ってほしいと考える。もし子供が自分の人生を憎んでしまったら、親もまた自責の念に苛まれるに違いない。また、「合意出生制度」がまだなかった時代に、先天的な障碍を持つ子供を産んだ親はしばしば「健全な身体に産んであげられなかった自分が悪い」というふうに、自分を責めていたと聞く。しかし、今はその出生が子供自身の意思によるものだと確認できる。親の心理的負担はかなり軽減され、本当の意味で我が子の出生を喜ぶことができるのだ。
『生を祝う』
建前としては、胎児の出生を選択する権利を確保することを目的としているが、実は、この制度を支えている親のメリットが大きいことが分かる。
一方で、出生に合意した子にとって、どのようなメリットがあるのか。彩華は、あるきっかけで出会った天愛会の会員に、次のように語る。
「私はギリギリ意思確認を経て生まれてきた世代だけど、生まれる前のことは何も覚えてないんです。何を知らされ、何をどう考え、何故生まれてくることに決めたのか、何一つ記憶に残っていない。ただ、自分は自分の意思で生まれてきたという事実だけが重要で、どんな挫折に遭っても、生まれてきたのは自分の選択だ、この人生は自分が選んだものだ、そういうことを思い出すだけで、すごく勇気が湧いて何でも乗り越えられるような気持ちになるんです」
『生を祝う』
彩華は先に引用した検査結果を拒否した場面で「あんな検査って本当に信用できるの?」と疑問視していたが、ここでは出生が「自分の意志で生まれてきた」「自分の選択だ」という検査結果を信用する態度を語っている。これらは矛盾している。
この後、彩華は矛盾を回避するためか、「それが自分の意思だと信じ込むことなのかもしれません。重要なのは真実じゃなくて、そう、信念なんです」と付け加える。つまり胎児が出生を選択したかどうかは重要ではなく、成長した子が後からそれを信じられることが重要だという。これなら審査結果が胎児の意思を反映していなくても問題ない。ほとんど信仰のようなものだ。
彩華が、検査結果を信じるのは、それがこの世界を引き受けて生きる上で支えになるという理由からだ。子にとっての合意出生制度のメリットは、子がこの世界を受け入れる助けになるという点にある。つまり、「責任がない」場所から、「責任を引き受ける」場所へと移行しやすくなる。親と子の双方にメリットがあるため、根拠となる検査結果が信用できないという欺瞞を含みながらも便利な制度として近未来では維持されていると考えられる。
このような制度が実現したら、親は生を強制贈与したことによる罪悪感から解放され、子は自分の意思で出生を選択したという虚構を手に入れる。それによって何が失われるのだろうか。私の考えでは、その答えは合意確認の待合室の場面に示されている。そこで彩華は、妊婦に付き添う男たちを見て、検査の結果が「リジェクト」だった場合に、彼らが妊婦にかける言葉を想像する。彼女が思い浮かべるのは、「今回は残念だったね、さあ次も頑張ろう」という言葉だ。
まるでゲームに失敗して、リセットするときのような軽い言い方である。だが、ある意味それも仕方がない。なぜなら胎児の意思は、親がほとんど関与できないブラックボックスのようなプロセスを経て告げられるからだ。胎児の人権を尊重する目的から導入された出生意思確認は、皮肉にも命の尊厳を軽んじる態度を生み出すことになりそうだ。


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