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【書評】李琴峰『生を祝う』 胎児が出生を選択する未来に幸せはあるのか

生を祝うカバー小説
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『彼岸花が咲く島』で芥川賞を受賞した李琴峰(り ことみ)の受賞第一作『生を祝う』の書評。生まれるか、生まれないかを胎児自身が選択できる近未来が舞台で、出産にからむ問題を考えさせる内容。出生を選択させることは、胎児の尊厳を守ることになるのか。そして胎児が出生を拒否したとき母親は冷静でいられるのか。人の生と家族の在り方に問いを投げかける意欲作だ。出生確認と反出生主義を題材にした芥川龍之介「河童」との違いや子の「イノセンス」(芹沢俊介)について考えてみたい。

妊娠と出産は、一貫して親の都合で行われる。そのため子は、意思に関係なくこの世に産み落とされる。親子の間に様々な葛藤が生じるのは、この事実によっているところが大きい。では、胎児が自らの出生を決定できるとしたらどうなるか。『生を祝う』は、この興味深い仮説が現実となった近未来の日本を舞台にしており、胎児の意向を巡って親が思い悩み、周囲に波紋を起こす。

現実の世界では、胎児には人権がなく、出生についての選択権などもちろんない。これはつまり胎児は人として認められていないということだ。出生について胎児に意思確認するという発想はそもそもないし、技術的にできるとも思えない。

一方、小説の近未来では、胎児に人権が認められている*。そして、子がこの世に生まれることは、状況次第で本人にとって不利益になるため、出生について胎児の意向を確認しなければならないという考えが常識となっている。胎児に選択権があるということだ。だから、小学校の先生は子どもたちに、出生について次のように教えている。
*この点に関しては、妊娠期間のある時期を境に、胎児に人権が発生するということだと理解したそれより以前は胎児に人権がなく、また妊娠初期には妊娠中絶も可能だと思われる。

「人から命を奪う」殺人と同じで、「人に命を押し付ける」出生強制は、絶対にやっちゃいけないことなんだ。分かったかい?

李琴峰『生を祝う』 ※ 「小説TRIPPER(トリッパー)」2021年秋季号より、以下同じ

親が胎児の意思を聞かずに出産するという当たり前の行為が、この社会では「命の押しつけ」、言い換えれば生の強制であり、死の強制である殺人に等しい犯罪行為とみなされるのだ。現在の常識とは相容れない思想であり、この小説が問題提起している部分である。

あらすじ・登場人物

主人公の立花彩華は、趙佳織(ジョウ カオリ)と同性結婚しており、自分と佳織の卵子を結合させた「接合卵」を子宮に着床させる手術を受けて妊娠した。彩華は、佳織とともに幸福な妊娠期間を過しつつも、胎児の出生意思確認(コンファーム)が近づくにつれて気持ちを高ぶらせていた。

そこへ、しばらく疎遠にしていた、彩華の姉・彩芽がやってきてコンファームを止めるように説得する。彩芽は、過去に妊娠したが、胎児から出生を拒否(リジェクト)された経験があり、心の傷になっていた。そのため、彩華に同じ経験をしてほしくないと考えていたのだ。しかし、彩華は胎児の人権を主張し、姉の説得を受け入れない。

一方、「合意出生制度」に反対し、「自然出生主義」を唱える宗教団体・天愛会が活動を先鋭化させていく。 天愛会のテロにより、出生意思確認を実施する病院を爆破され、多数の死傷者が出るなど、制度に対する不満が顕在化し、世間に不穏な空気が漂う。

そんな中、妊娠9カ月を迎えた彩華は、病院で胎児のコンファームを受けるが……。

胎児は数値のみで出生を判断

胎児の人権が考慮されるようになった要因として、世界的な疫病の流行がある。人々は死を身近に感じるようになり、死生観が大きく変容したと説明される。それによって、死の自己決定権とともに生の自己決定権が必要であるという認識が浸透し、米国や日本などの主要国で安楽死と共に「合意出生制度」が法制化された。この制度により、妊婦は胎児に出生の意思を確認することが義務付けられている。

ここで読者は、「どうやって胎児の意思を確認するのか」と疑問を抱くだろう。この小説を理解するには、合意出生制度の中身を頭に入れる必要がある。

まず、胎児の意思確認で鍵になるのは、言語学者のノーム・チョムスキーが提唱した「普遍文法」だ。普遍文法は、ごく簡単に言えば、あらゆる言語には共通するルールがあり、人間は、特に障害がない限り、生まれつき言語の共通ルールを理解する能力を備えているというもの。この小説では、9カ月以降の胎児には、普遍文法が備わっており、電気的な信号を使って胎児の意思を確認する。

胎児は、電気信号を使って送られた「生存難易度」を出生の判断材料にする。生存難易度とは、遺伝情報や知能指数、両親の経済状態、持病の有無、アルコール依存度、喫煙頻度、宗教や政治の偏向具合のほか、国の治安や繁栄度、気候などの情報を数値化し、特殊な数式によって算出した数値である。例えば、海面上昇で水没が予想される国では、この生存難易度が上がるため、多くの胎児が出生を拒否するという問題が起こる。

生まれることを選択した胎児は出産へと進み、生まれないことを選んだ胎児は、医者の手によって堕胎される。

ここまで読めば、新たな疑問がわいてくるだろう。この世界の多様な要素を、数値に単純化して胎児に伝え、それによって出生の意思を確認を迫るとは、あまりに乱暴ではないか、と。当然の疑問である。そして、小説では、この意思確認の方法がはらむ問題が議論の焦点になる。

芥川龍之介「河童」との違い

日本文学の熱心な読者なら、この小説の概要を知って、芥川龍之介の小説「河童」を思い出すのではないか。「河童」は、精神病患者が山登りの途中で河童と遭遇し、彼らの国に迷い込んで見聞した習慣や風俗を語ったもの。その中に河童の父親が胎児に出生の意思を確認する場面がある。

父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。
(略)
「僕は生まれたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでもたいへんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから。」
(略)
産婆はたちまち細君の生殖器へ太い硝子の管を突きこみ、何か液体を注射しました。すると細君はほっとしたように太い息をもらしました。同時にまた今まで大きかった腹は水素瓦斯を抜いた風船のようにへたへたと縮んでしまいました。

芥川龍之介「河童」

『生を祝う』に「河童」への言及はないが、作者はこの場面からヒントを得て、芥川賞受賞第一作を書いたというのが私の推定だ。

「河童」の出生確認の直前、精神病患者と河童の医者が産児制限について議論する。医者は「しかし両親のつごうばかり考えているのはおかしいですからね。どうもあまり手前勝手ですからね」と発言する。親のことばかりではなく、胎児の都合すなわち気持ちや意思も考えてなければいけないという発想が河童の世界にはあるわけだ。人権に相当する「河童権」という言葉こそ出てこないものの、それと同質の思想が見えており、基本的な前提が「生を祝う」と共通している。

さらに、引用部分にある通り、河童の胎児は、コミュニケーション能力を備えており、父の問いかけに対して出生を拒否する。その際、親の遺伝による悪影響と、さらに河童であること自体が悪であるという「反出生主義」のような認識を出生拒否の理由に挙げている。胎児が意思を伝える点、遺伝を出生拒否の理由に挙げた点は、「生を祝う」とつながる。

「河童」との共通点を指摘することで、「生を祝う」の独自性を否定するつもりはない。河童の世界では出生意思確認が当然のように行われるのに対し、 「生を祝う」で作家は制度を緻密に設計し、死生観の変化や技術の進化を前提に制度導入までの道筋を示して遠くない未来に起こりうると思わせることに成功している。

また、河童の親が何の葛藤もなく、胎児の判断を納得しているのに対して、「生を祝う」では、親の苦悩に焦点を当て、制度を無視して出産する親や、制度に反対する勢力を登場させ、合意出生制度が引き起こす、議論を突き詰めている。親や社会がこの制度をきっかけに葛藤するところが作品の読みどころであり、作家が書きたかったことだと思われる。

身体が理念を拒否する

(※以下で小説の後半部分の内容に触れています)


小説は、序盤に彩華の妊娠が判明してから、読者が当然予想する通りに展開していく。コンファームの結果、彩華の胎児がリジェクトするのだ。事前のチェックでは胎児の出生同意確率が95%を下回ったことがなく、彩華は胎児が合意することを信じていた。

それまでの彩華は、出生について胎児の意思を尊重することを佳織と確認し合っていた。しかし、リジェクトの結果を受けて、彩華は取り乱す。検査結果が間違っていると主張し、他の病院での再検査を求める。しかし、これは制度上認められない。検査結果を受け入れることを提案する佳織に対して、彩華は本音をぶちまける。

「佳織までそんなことを言い出すの?この子を殺すって言うの?」
「殺すんじゃない、生まれたくないという意思を尊重してあげるだけだよ」
「それが本当にこの子の意思かどうかも分からないじゃん」
「でも他に参照できる情報もないから、前回の検査結果を信じるしかないじゃない」
「そもそもさあ、あんな検査って本当に信用できるの?数字を伝えると〈アグリー〉か〈リジェクト〉かが返ってくるって言われたって、仕組みは完全にブラックボックスじゃん。私たちの知らないところでいくらでも弄(いじ)れるじゃんか」

『生を祝う』

合意出生制度の根幹である、意思確認の方法とそれによって得られる胎児の意思を、彩華自身が信じていないことが分かる。これに先立って、コンファームのため検査機器を体内に挿入された彩華の身体が拒絶反応を起こす場面は、彩華が胎児の人権という理念を心の底では受け入れていないことを象徴している。

何かひんやりしたものが身体の下の方に触れたかと思いきや、既にクスコを挿入されて膣が拡張された感触が伝わり、思わず身体を強張らせると鈍い痛みに襲われた。(略)

膣の鈍い痛みと同時に下腹部からも感電するような鋭い痛みが走り、思わず岬き声を漏らした。これは想像していたよりきつい、そう思いながら深呼吸をして堪えようとした(略)

『生を祝う』

検査機器は、理念のメタファーであり、それを受け入れようとしたとき、体は拒否する。頭では分かっていても、自分の利害と相反する場合、理念を簡単に捨て去ってしまう。

こうした拒絶の感情は、彩華だけでなく、リジェクトを経験した多くの女性が抱いているものである。この制度に異を唱える天愛会のような勢力が生まれる必然性がある。

そして胎児の意思表示を信じられていないとしたら、この制度は何のために存在しているのか、という次なる疑問を引き寄せる。

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