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【書評】石沢麻依『貝に続く場所にて』 東日本大震災の幽霊を悼む

小説
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生き残った者の後ろめたさ

 身近な人が死んだとき、残された者の心には、後悔や後ろめたさといったやりきれない感情が渦巻く。「話しかけられたときもっと真剣に聞くべきだった」「あのときもっと優しくしておけば……」といった出来事が一つや二つはあって、思い出すと胸が苦しくなる。でももう遅い。この「間に合わなかった」という気持ちは、どこにもぶつける場がない。

 生き残った者は、死者を悼むことで、このような心の苦しみから解放されようとする。死者への思いにある種の決着を付け、後ろめたさから解放されること。これこそが追悼や哀悼の目的なのだろう。では、死者についてどう考えて、心を整理すればよいのか。

 石沢麻依の小説『貝に続く場所にて』は、東日本大震災で知人を失った人の心の問題を扱っている。戦争や災害、疫病など、短期間に多くの人が死ぬ状況では、後ろめたさを抱えて苦悩する人の数も多くなる。本作のようなテーマを追求する作品が世の中から必要とされる理由である。



あらすじ・主な登場人物

 主人公の「私」は、ドイツのゲッティンゲンに留学し、美術史を研究している。出身は仙台市で、東日本大震災のときは地元の大学に通っていた。小説で、震災は九年前の出来事になっている。同じ大学で西洋美術史を専攻していた野宮は、石巻の実家にいて家族と共に津波に飲み込まれた。野宮の遺体は未だに見つかっていない。ある日、野宮の幽霊が現れたことから、主人公は、遠ざけていた震災の記憶に直面させられる。

 作品は濃密な文体で、ゲッティンゲンの歴史や異国で築いた人間関係を描きながら、東日本大震災の死者の記憶について思索を巡らせる。主人公の野宮に対する心の揺れを表現する詩的なイメージや個性的な友人たちとのエピソードが読みどころである。ただし、扱うテーマが重く、物語に劇的な展開に乏しいため、気軽に読める小説ではない。

罪悪感のかたち

 主人公の心の揺れは、野宮に対して抱く「罪悪感」から生まれている。この小説の中に、「罪悪感」という言葉は6回使われていることからも分かる通り、死者に対する罪悪感から自由になるまでのプロセスを描くことがこの小説のテーマである。

 主人公が抱く罪悪感は、次のようにかたちをしている。

野宮に向ける罪悪感が、痛みの正体だ。私は彼をきちんと迎えることができないからだ。傍観者の視線で、この年月を過ごしていたのだろうか、と私は自分に問い続ける。白くさらしたままの距離を、野宮に見抜かれることを恐れていた。

「貝に続く場所にて」(「群像」2021年6月号)

 震災以降の年月を「傍観者」として生きてきたのではないかと自分自身を問い詰めている。この意識が罪悪感の根源にある。主人公には、死者を受け入れるだけの心の準備が整っていない。だから野宮の幽霊を歓迎できない。

彼が来たのが別の街ならば、と恨みがましく思う度に、罪悪感にかられ、少しずつ感情の表面が削られてゆく。

「貝に続く場所にて」(「群像」2021年6月号)

 ここには、正直な気持ちが語られている。野宮の存在は、主人公にとってできれば思い出したくなかった記憶である。そうした記憶を目の前につきつけられて戸惑っている。主人公が記憶を抑圧していたことを見透かしたように、野宮は幽霊として主人公の前に回帰した。幽霊とはそういうものだ。遠ざけておきたい死者の記憶が幽霊となって残ったものを脅かすのである。主人公は、果たして野宮の幽霊と和解できるのか。

死者の記憶を抱えて生きる人々

 主人公が罪悪感から開放される手がかりとなるのは、ドイツの街に刻まれ、人々が抱えて重みに耐えている死者の記憶である。

 ゲッティンゲンは、連合軍の空襲によって繰り返し被害を受けた。その痕は未だに発見される不発弾として人々の意識にのぼる。もちろん強制連行されたユダヤ人の記憶も街の至るところに残されている。

他の街と同じく、躁踊された多くの人の記憶も抱えている。シナゴーグの襲撃やユダヤ人の連行と収容所送り。それらの時間や記憶をも、碑やオブジェで声を目で見られるようにしている。街の規模は大きくないが、そこにはたくさんの碑が埋め込まれている。場所にひそむ重い影の時代。記憶の視覚化を通して、そしてそれを繋ぎ合わせて、この場所もまた死者の声を浮かび上がらせようとしていた。

「貝に続く場所にて」(「群像」2021年6月号)

 ドイツの人々はこうした不幸な死者の記憶を常に身近に感じながら生きている。そうした姿は主人公を野宮の幽霊を受け入れることを後押しする。また家族の死を抱えて生きる友人たちも主人公の背中を押す。同居人のアガータは、母を自殺で失った。乳がんを患った母に転移が見つかったことから、アガータは実家に帰り、母と今後の治療について話し合った。その晩、母は自室で首を吊ったのだ。アガータは自殺の兆候に気付けなかった自分の鈍感さを責めていた。母の死をきっかけに姉と疎遠になってしまった。哲学を研究しているカタリナは、幼い頃に弟を失っていた。そして弟が「騎士を真似て、腰に木剣を佩いて自転車を馬に見立てていた」姿を大切に記憶している。※佩(は)

 日本から遠く離れた国で、死者の記憶と折り合いを付けながら暮らしている人々と交流することで、主人公は徐々に野宮の幽霊を受け入れ、罪悪感と向き合い始める。

罪悪感からの解放

 主人公は、小説の終盤、野宮を含む現地の仲間たちと「ビスマルク塔」を訪れる。ビスマルク塔は、ドイツの初代宰相、ビスマルクを称えて建造されたもので、主人公と野宮は、塔の中の螺旋(らせん)階段を登っていく。「螺旋階段は感覚を狂わせる。くるりくるりと回る度に、時間や場所が白く遠のいてゆく」。この異界めぐりのような経験を野宮と共有することで、「罪悪感」からようやく解き放たれる。

私と野宮はさらに階段を上ってゆき、円筒形の屋上に出てきた。遮るものがないのに彼女たちの声は途絶え、陽射しはどこか硝子めいた静けさを湛えている。私たちは無音の中にいて、そしてそれは言葉のために用意された場所だった。その時、埋火のようにあった罪悪感が、私の中で透明に抜け落ちる。

「貝に続く場所にて」(「群像」2021年6月号)

 この後、野宮の幽霊は主人公の前から姿を消し、東北の海を思わせる「青の世界」に還ってゆく。これによって主人公による野宮の哀悼はひとまず完了したように見える。

 ここまで書いたように、主人公が野宮の幽霊と和解できるまでのプロセスを追うことはできるものの、主人公が抱いていた罪悪感がどのような理由で消えたのかについて、私が読む限り、はっきりとした言葉で語られていなかった。

 この作品では、死者の記憶と関連してドイツの歴史、宗教画などの美術作品、冥王星など多くの要素が語られている。これらについて私が詳しければ、作品の意味を深く理解できたかもしれない。この作者が今後、同じテーマで日本を舞台に小説を書くとしたらぜひ読んでみたい。


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