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【解説】南杏子『いのちの停車場』 感想 レビュー 親が「死にたい」と言うとき 

南杏子『いのちの停車場』のカバー
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南杏子の小説『いのちの停車場』の解説。終末期医療専門医の目を通して、死を目前にした患者と家族を描いている。吉永小百合・主演の映画『いのちの停車場』の原作。

 私には高齢の両親がいる。幸いなことに彼らは老人ホームに入っているので、私自身は介護の苦労を経験しないできた。ただ彼らも80歳を超えて、かなり弱ってきている。そう遠くない日に看取りをしなければならない。『いのちの停車場』には様々な看取りの例が描かれており、これを読むことが私にとってきたるべき日の予行演習になった。

あらすじ

 この作品は、終末期医療の現実をテーマにしている。著者の南杏子は、高齢者医療専門病院の内科医であり、医療現場で得た知見を生かしたリアルな内容とともに、在宅医療の専門医と死を目前にした患者、その家族との交流や看取りの場面を描いている。

 主人公の白石咲和子は、六十二歳の女性医師。城北医科大学病院の救命救急センターで、女性として初めての副センター長にまで上り詰めた。しかし、現場でのミスの責任を取り、職を辞する。そして実家のある金沢に戻り、在宅医療に携わることになる。咲和子には、救急医療の最前線で経験を積んできた自負があり、終末期医療も苦もなく対応できるだろうと楽観していた。しかし、過酷な現実に直面し、咲和子の自信はそうそうに砕かれる。咲和子は、在宅医療を通していくつもの看取りを経験し、最後に自身の父親の最期にも立ち会うことになる。

終末期医療の現実

 救急医療は、江口洋介主演の「救命病棟24時」や山下智久主演の「コードブルー」など繰り返しドラマ化されてきた。急患が運び込まれて、一刻一秒を争って治療を施し、命を救うことから華々しい印象で、絵になりやすからだろう。それに対して、在宅での終末医療は、地味である。
 
 救急医療や通常の医療では、患者の命を救うことが大前提としてあり、そのために最善の治療を施すのが医者の使命である。一方、終末期医療の現場では、患者本人や家族が延命を望まず、治療を拒否することさえある。さらには、苦痛から解放されたいがために安楽死を希望するケースもある。咲和子は、患者の自宅を訪問し、家族が抱える問題に接することで、これまで自分が考えていた医療とは、別の医療が必要とされる現実を知る。従来の医療との違いに戸惑い、自問自答を繰り返しながら、咲和子が終末期医療の重要性に目覚めていくところがこの小説の見どころである。

妻の治療を拒否する夫

 咲和子が最初に訪問する かつて鮮魚店を営んでいた老夫婦のケースは、日本の多くの家庭に見られるケースだろう。86歳の妻シズがパーキンソン病を患い、歩行が困難になった。また飲み込む能力もなく胃瘻(いろう)で命をつないでいる。シズは咲和子の問い掛けにほとんど反応しない。こうなると患者本人が、生きる意欲を持っていないことも多い。

 私の母は、自分で歩行できず、車椅子に乗っている。寝ていての体のあちこちが痛み、自分で寝返りも打てない状態だ。人並みに食欲はあるが、特にやりたいこともなく、「生きていても仕方がないから、早く死にたい」とぼやいている。家族としても、生きがいを失った老母に、「何としても生きてほしい」とは言いにくい。とはいえ、放置することもできず、老人ホームのサービスを受け、命をつないでいる。

 シズの場合、高齢の夫、徳三郎が在宅で介護している。つまり老老介護だ。徳三郎は、咲和子に訴える。

「こいつが早く死んでくれんと、こっちが先にいってしもうわ。早いとこ、なんとかしてくれんけ、先生さん。こいつも死にたがっとるがや」

『いのちの停車場』第一章 スケッチブックの道標

 つまり、家族が患者の死を求めるケースである。介護を担う徳三郎の健康にも配慮しなければならない。しかし、それは簡単ではない。咲和子は徳三郎の負担を軽減するため、デイサービスの利用を提案するが、徳三郎はそれを「金がかかるから受けたくない」と言って拒否する。。

 咲和子は、シズの血圧を測定することもできなかった。徳三郎が「無駄なカネは使わなくていい。これでいいがや。血圧なんか測ったって、薬を買う金もないし」と言って拒否したからだ。「一体これは医療なのか。そもそも医者は必要とされているのか」と咲和子は悩む。

増えている「老老介護」「認認介護」

 様々な事情で、高齢の親がいても同居できない子どもは少なくない。また老人ホームに入るだけの蓄えがない高齢者もいる。そのため徳三郎夫婦のような老老介護は深刻な現実である。2013(平成25)年に厚生労働省が行った国民生活基礎調査では、在宅介護をしている世帯の半数を超える51.2パーセントが老老介護の状態にある。また、認知症の要介護者を認知症の家族が介護する「認認介護」という現実も広がっているという。今後、在宅による終末期医療に携わる咲和子のような医師の重要性は増すはずだ。

 この小説では他に、ラグビーのプレー中に頸髄を損傷し、両手両足はほとんど動かせなくなったため幹細胞治療を求めるIT企業の社長、認知症の疑いがあり、ゴミ屋敷に独りで暮らす78歳の老女、6歳で腎腫瘍のステージ4で余命わずかな少女、膵臓がんが肺に転移して、すでに手術不能の状態にある57歳の高級官僚、神経内科医だった、咲和子の父の看取りの事例が描かれる。読者は、年齢も立場も異なる患者の最期と家族の心の動きを咲和子の目を通してを目撃し、学び、いつかやってくるその日に向けて心の準備をすることができる。

終末期医療の啓蒙小説として

 この小説は、看取りにおける人間ドラマを描くだけでなく、終末期医療についての啓蒙小説という側面も持っている。関連する専門用語も多く出てくるが、分かりやすい説明が挿入されるので読みやすい。私は、「アドバンス・ケア・プランニング」「幹細胞治療」「積極的安楽死」「セルフ・ネグレクト」といった用語をこの作品によって知った。

積極的安楽死は許されるか

 この小説では、「積極的安楽死」が重要なテーマになっている。これについては別の機会に考えたい。


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