桜庭一樹・鴻巣友季子論争まとめ あらすじと解釈は分けられるか

桜庭一樹「少女を埋める」小説

「あらすじ」と解釈の在り方

ここからは、1つ目の論点である小説のあらすじと解釈の在り方を考える。

批評では、小説の中に明示されている内容と、評者の解釈の部分とがある。ミスリードを防ぐために、通常はこれらの違いが分かるように記述する。後者については、語尾に「思われる」「だろう」「らしい」「考えられる」などを付けて、評者の解釈であることを示す。鴻巣は、 上に書いたように問題となった部分が自身の解釈であることを認めている。時評を書いている段階でも、そのことについて認識していたと考えられる。

時評の他の部分を見ると、鴻巣の解釈と思われる個所には「冬子は生涯少女であり続けるだろう。」のほかに、「ことか。」「ようだ。」「ないか。」といった表現を使っている。解釈であると認識していたのであれば、断定ではなく、解釈を示す表現を使えたはずだ。 解釈部分をあらすじと混同してしまう読者を想定して、解釈であることを明示した方が良かったと思う。

一方で、鴻巣の言う「作品紹介のあらすじと解釈を分離するのはむずかしい」という意見も原則論として理解できる。文芸時評を含む批評は、そもそも小説などの作品の読み(解釈)を前提として論を展開するものだ。その際、作品の内容を分かりやすく少ない文字数で記したものが、いわゆる「あらすじ」である。実際やってみると分かるが、長い小説(「少女を埋める」の場合は原稿用紙180枚)の内容を、数行で過不足なくまとめるなど不可能に近い。

あらすじをまとめるには、小説から読み得た情報を取捨選択し、必要に応じて言葉を置き換えたり、つながりが不明確な部分を推理したりする作業が必要になる。その過程で評者の解釈が入り込むことは避けられない。鴻巣は「あらすじに見えるものも含めて、評者の解釈なのです」と言いたいのだろう。今回の時評の中で、鴻巣は「あらすじ」とは書いていない。これも「あらすじ」と「解釈」を分離できないという意識があるからだと思われる。

私小説のモデルの扱い

次に、2つ目の論点である「私小説のモデルの扱い」を検証する。桜庭は、この小説が「私小説」であり、実在の人物をモデルにしているため、鴻巣の時評がその人物に対する「加害」になっていると主張してる。

一方、掲載された文學界の目次には、以下のように説明されている。

創作 桜庭一樹 少女を埋める 180枚
七年ぶりの母からの電話は、父の危篤を知らせるものだった。小説家が向き合う、故郷の記憶と家族の解体

文學界2021年9月号  目次

小説本体の方にも「私小説」という記述はない。小説の語り手(主人公)である「冬子」が小説家であり、冬子が書いた小説『ファミリーポートレイト』や『私の男』が出てくる。これらが桜庭の作品と一致する。そのため、桜庭の作品を知っている人であれば、主人公が作者をモデルとしているらしいことは分かる。

しかし、それ以外の部分についてはどこまでが、事実でどこからが虚構なのか、読み手には分からない。仮に私小説であっても、小説の一種に過ぎず、読み手は他の小説を読むのと何ら態度を変える必要はない。鴻巣は、この点に関して、先に上げた反論文で以下のように言及している。

まず、本作は自伝的要素はあるとしても、「文學界」に「創作」として発表された作品であり、わたしは一つの「小説」として読んでいますので、作者のご家族に関する「事実」については切り離して考えさせてください。

「8月の朝日新聞文芸時評について。」

この考えは妥当だと思う。鴻巣が小説に登場する人物にどんな解釈を加えても、それは実在の人物に対する論評ではない。それがあらすじと解釈が分離できないかたちであっても同じことだ。実在の人物に影響があったとしても、鴻巣が責められる理由にはならない。そこは明確に分けるべきだと思う。

実在の人物をモデルにして小説を書けば、様々に受け取られ、モデル本人に大きな影響を与えることは当然予想できる。過去に小説のモデルにされた人物が小説家を訴えたケースもある。桜庭もそうした事情は十分承知していたはずなのに、なぜ今回のような「私小説」を書いたのだろうか。実在の人物に迷惑をかけることについて、小説家本人がどこまで想定し、覚悟していたのか疑問だ。

桜庭は、「報道被害」について言及しているが、通常、実際の事件・事故についての報道が対象になるのであって、小説内の登場人物についての論評で、「報道被害」と認定された例は聞いたことがない。そんな例があるのだろうか。さらに言えば、「報道被害」を受けるとしたらモデルにされた実在の人物である。実在の人物を小説に登場させた小説家が「報道被害」を先回りして訴えるのも奇妙な構図である。

朝日新聞は、鴻巣の時評を問題なしと判断して掲載したはずだ。 報道機関である新聞社が桜庭の要求をどのように判断し、対応するのか注目したい。

鴻巣の解釈は妥当なのか

この論争に関するツイートの中には、鴻巣の読み(解釈)を「誤読」と指摘しているものが見られる。果たしてそうなのか。「誤読」と指摘した人は、小説の読みには「正解」がある試験問題のようなものだと思っているのだろうか。

私は、すでに小説を読み終えていたので、鴻巣の時評で問題の虐待・密室解釈を読んだとき、「そんなことが書いてあったっけ?」と疑問を抱いたが、そうした解釈も「ありえるかもな」とそれほど強い違和感は抱かなかった。その後、桜庭が自作について説明しているのを読んで、「へえそうだったんだ」と意外に思った。私には、作者が説明しているようには読めなかったからだ。

一方で、鴻巣は、「虐待」と解釈した理由を 「8月の朝日新聞文芸時評について。」 で説明しているが、解釈を断定的に書いた割には、説得力に欠けると感じた。虐待・密室解釈が小説に書かれたことではなく、読み(解釈)であることを鴻巣が認めたことで、1つ目の論点は、朝日新聞がどう対応をするのかという問題に移行している。ただ、 虐待・密室解釈がこの小説の解釈として妥当だったのかという問題は残る。

鴻巣は指摘していないが、小説の中で母は「家庭という密室で子供に暴力をふるう」人物として描かれている。また、「母はいつも父ではない誰かと疑似家族を作りたがっているように見えていた」という記述もある。こうした情報が、「ずいぶんお父さんを虐めたね」という母の述懐に重なり、鴻巣の虐待・密室解釈に影響を与えたと私は考えている。私が虐待・密室解釈を「ありえるかもな」と思ったのも、こうした母についての情報があったからだ。

この虐待・密室解釈については、日をあらためて書いてみたい。

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